預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇129(都上りの歌⑩)

 「さあ、言え」と、124篇と同じパターンで始まる、神の守り(たとえ敵の中にあっても神が助けてくれるという事)についての詩である。
 確かにイスラエルは、エジプトの奴隷から救い出され、バビロン捕囚からも解放された。それゆえ「神は必ずあなたを守る、それが信仰だ」と言われる。では何故、殉教したクリスチャンは守ってもらえなかったのか。不信仰だったからだと片付けるのか。使徒達もか。でないなら、聖書は嘘か。「主が守る」と至る所に書いてあるが。


 勿論、「主が守る」と聖書が約束しているなら信じるべきだ。が、現実は必ずしもそうではない事も認めざるを得ない。現実を認識出来なくなったら、それは狂信だ。このジレンマをどう解決するのか。


 問題は、聖書が「守る」と言うのは「何から」なのかだ。無論「」からである。では敵とは? 周辺諸国か、意地悪なご近所さんか。信仰があれば交通事故に遭う事は無く、風邪をひく事も無いのか。それなら何故、殉教者が…と、繰り返しになる。


 果たして、本当に神は守ってくれるのか。勿論、信じる。ただし、信仰によって必ず守られるものは地上の命ではない。人は必ず死ぬ。しかし魂は、サタン・死・滅びという敵から必ず神が守ってくれる。約束の地・天の都・永遠の命に導き入れられる事によって完全にである。それを示すモデル、それが出エジプトであり、捕囚からの解放だ。そして、その成就が、十字架による救い(この世からの霊的な脱出)であり、遂にはリアルに、この世から脱出する、それが携挙だ。それこそが、聖書の教える信仰の目的だと信じる、その信仰によって魂は守られるのである。


 その信仰を持たないなら枯草のようになり蔑まれると詩人は言う(5~8節)。しかし「刈り取る者」(主イエスの教えによれば、それは「本当の弟子」)は枯草のような信仰を掴みはしない。神に喜ばれる信仰、すなわち、神御自身を求める信仰を掴むのだ。そのようにして、天の都に上って来るように、と教える詩なのである。


 だから、大事なのは、熱心さよりも真っ直ぐである事だ。曲がった信仰の道を熱心に歩んでも苦しいだけである。私達は本物の信仰を掴んで真っ直ぐに歩もう。そうすれば、魂は必ず守られる。

詩篇128(都上りの歌⑨)

 「祝福」それを要らないと言う人はいないだろう。むしろ、何にも増して求めていると言えるかもしれない。そして聖書は言う。主を恐れる人は祝福を受ける(4節)と。
 ただし、それは主を恐れた結果として付いて来るものであって、祝福は決して目的であってはならない。所が、ともすれば祝福が目的化されて、信仰はその為の道具となってしまう。それは初代教会の時からだ。敬虔を利得の手段と考えている人々がいる、とパウロは指摘している(Ⅰテモテ6:5)。


 神から恵みを受ける事も祝福であろうが、基本的には「幸福である事を祝う」それが祝福だ。では、何が幸福か。「このように」と4節が指すのは2~3節である。
 まず、妻が家の奥にいる。子供も共にだ。まあある意味、円満な家庭と言えるかもしれない。何より幸福なのは「自分の手の勤労の実を食べるとき」だという2節だが、本来それは、神無しでは虚しい事だと127篇では言われていた。だから1節にある通り、主を恐れ、主の道を歩む者にとっては、幸福だという事だ。


 だからと言って、信仰者が皆、幸福とは限らない。問題は、その人がどんな信仰の道を歩むか、だ。祝福を目的とする信仰の道(敬虔を利得の手段とする道)でもいいのだろうか、という事なのである。


 本当の「主を恐れて歩む、主の道」とは、天国への道であるはずだ。何故なら、その道を歩ませる為に主は私達を招いて下さったのだから。その様な、御心に適う信仰の道を歩むなら、勤労の実も神の賜物であり、家を建てるのも、平和な家庭を築くのも、幸福となるのであって、正しい信仰抜きには、全ては虚しい。死んでお終いという事である。


 だから、その為に「エルサレム(神の国の中心)の繁栄を見よ」(5節)と言う。すなわち「私達の心の中(神の国)中心(魂)を廃れさせてはいけない」という事だ。そして「イスラエルの上に平和があるように」(6節)と。
 それは勿論「真のイスラエルの上に、神との平和があるように」という事だ。天国と現世御利益を引き換えにしては、神との平和は無い。それは魂を悪魔に売り渡す事に等しい。その誘惑は人生という荒野には常にある。主イエスも、その誘惑を受けられた。


 私達は魂を守り抜き、御心に適うように天国への道を歩み続けよう。

詩篇127(都上りの歌⑧)

都上りの歌。ソロモンによる


127:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。


 1節は、家を建てる時には主の名によって定礎式を…、主が町を守って下さるように祈りながら歩こう…、そんな安直な教えではない。2節も不思議だ。何故、主が愛する者の為に虚しいものを備えるのか。


 理解の鍵は「虚しい」という言葉だ。1~2節は、人の労苦を表現している。つまり、朝早く起きて夜遅くまで働いて自分の家を建てて平和な町で暮らす事を求め、その為に辛苦の糧を食べる、それが人なのだが、神抜きではその人生は虚しいという事なのである。


 神無き人生は虚しく、死ねば全ては無駄となる。それはソロモンの教えに共通する。しかし、主が愛する者には「眠りを与える(直訳)」。その目的は「復活と永遠の命」である。すなわち、人が地上で求めていた平和と幸せを備えるという事だ。これも都上りの歌なのである。


 問題は3~5節。まるで「子沢山=老後が安心」と言っているかのようだ。親の面倒を見させる為に子供は存在すると言うのだろうか。


 聖書のメッセージの中心、それは勿論「悔い改めて天国に入れ」である。常にその視点に立って読む事が必要だが、学術的な研究も欠かせない。と言うのは、5節の「門」は当時の討論や裁判の場所だった事が研究によって分かっているのだ。その上で聖書理解の大切な視点に立つなら、「門」は天国に入る前の裁判、すなわち最後の審判を表すという事になる。その時にも安心なのは誰かという事だ。


 たとえ子沢山でも、自らが幸いでなければ意味が無い(伝道者6:3~6参照)。本当の幸いは神を知る事だ。その上で人生を楽しめとソロモンは教える(同9:9)。言わば、主にあっての家庭を築け、という事だ。そうでなければ全ては虚しい、と言うのが詩篇127:1~2なのだ。


 それを受けての3~5節(子沢山は安心)が意味するのは、神を知った上で祝福された人生を歩むなら…という事であって、子供の数が問題なのではない。要は、神にあっての正しい生き方(人生)を歩め、という事だ。そうすれば、最後の審判の時も安心だ、と。


 聖書の言葉を安直に理解してはいけない。聖書の目的は、いかにして天国に入るかだ。その御心に適うように、正しい信仰を持って歩み、その上で人生を楽しもう。それこそが主の賜物であるのだから。

詩篇126(都上りの歌⑦)

126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。


126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」


126:3 主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。


126:4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。


126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。


126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。


 これは夢かと思うほどの驚くべき神の救いの御業、それがバビロン捕囚からの解放だ。が、詩人はその喜びを思い出してこの詩を書いたのではなく、今から起こることとして「その時にはこうなる」と預言的に書いたと思われる。では、その時とはいつか。


 バビロン捕囚からの解放は、第2の出エジプトであり「キリストによる救いの雛形」であるから、それが「その時」なのか。いや、しかし「その時、国々の間で人々が主を賛美した」かと言えば必ずしもそうではない。クリスチャンになった時、家族から反対された人がいる。友人が離れてしまった人もいるだろう。果たして、その時、国々(神の民でない人々)が「これは主の御業だ」と言う時はいつなのか。


 鍵は出エジプトだ。それら(第1と第2)は第3の出エジプト(キリストによる救い)の予表であるが、まだもう一つの出エジプトがある。携挙だ。リアルにこの世からの脱出の時である。その時、世界中の人々がそれを見る。そして驚きの声を上げるのである。「クリスチャンが言ってた通りだ! という事は、これはキリストの業だ!」と。この詩(特に2節)は、その時のことを預言しているのだ。


 これでようやく1節の意味も開かれてくる。携挙…もしかしたらそれは、夢みたいな話だと思えてしまうかもしれない、というようなことだ。確かに、クリスチャンでなければ到底信じられないだろう。しかし、それが起きた時には私達は喜びで満たされるのだ。そして、国々の間で人々は驚きの声を上げる。だから、それを「主よ、私達の為に成し遂げて下さい」(3節・新共同訳)と詩人は祈る。すなわち「救って下さい」という事だ。そして4節に繋がる。
 5~6節は、伝道が成功するというような事ではない。刈り取り(収穫)は、終わりの時の事だと聖書は教えている。それまで地上の信仰生活には苦労がある。涙と共に御言葉を自分の心の畑に(神の家族にも)蒔き続ける必要があるのだ。それには忍耐が求められる(ヤコブ5:7~11)。しかし必ず実りはある。真理の御言葉は、必ず魂を救う。その魂は喜び叫びながら天の都に帰って来るのだ。だから、これも都上りの歌なのである。その時まで、涙しつつも御言葉の種を自らの心に蒔き続けよう。

詩篇125(都上りの歌⑥)

 エルサレムは山々に取り囲まれた地形ゆえに難攻不落な町であった。それと同じように神は御民を守るという(1~2節)。すると、信仰者は風邪もひかず、事故にも遭わないと? いや、この世にあっては患難がある。それは認めなければならない。問題は、何から守るのかだ。


 根本的に、聖書が教えるのは、天国・救いへの道だ。全ては、そのためのメタファー(隠喩)である。例えば、約束の地はカナンとされるが、本当の約束の地は天国である。そして、エルサレムとは神の国の中心(クリスチャンの心の中)である。ゆえに、エルサレムを守るとは、クリスチャンの信仰を守るということなのだ。


 そこで、何から守るのかだ。それは、偽り・惑わしからである。何故なら、天国に入れるようということこそが聖書の目的だからだ。主は言われた。片手片足を失っても天国に入る方がいい、と。その言葉を本気で受け止めることが必要だ。それが、主への信頼というものである。そんな人を、神は守ると言うのである。


 次に大事なことは、信頼とは何かということだ。何を信じてどう頼るのか。神を信じる、だけならサタンも「神は唯一、全能」と信じている。まして、神がおられることなどは信じるまでもなく事実だ。その上で、神に信頼するとはどういうことか。それは、神の約束は必ず成ると信じて頼ることなのである。それも、聖書の目的に沿って約束されていることを、だ。自分勝手な信頼(例えば、神は必ず病気から守ってくれる、とか)を神に押し付けても、そうはいかないのである。


 聖書の目的である天国・救い、それは、良い人になったら入れると約束されているだろうか。いや、純粋な信仰を守れば入れる、それが約束だ。その約束を信じて頼る、それが神への信頼なのである。


 その信頼が崩されることのないように神の助けが必要である(3~4節)。その助けは、天地を造られた主から来ると言うのが詩篇121だ。しかし、曲がった道にそれる者は取り除かれる(5節)。だから、クリスチャンの心の中・信仰が守られなければならないのである。それが「イスラエルの上に平和があるように」という祈りだ。神との平和・神への正しい信頼が築かれるようにと祈ろう。