預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

計画は無駄?(箴言19:21)

 主のはかりごとだけがなる、と聖書は言う。では、主のはかりごと(神のご計画)は何か。それは、『災いではなく、将来と希望と平安を与える計画』(エレミヤ29:11)であり、『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないものを備えている』(Ⅰコリント2:9)、というものである。そのような『神のご計画に従って召された者ためには、神は全ての事を働かせて益と変えて下さる』(ローマ8:28)…それが、主のはかりごとである。
 では人間の計画はどうか。人はいろいろな計画を立てる。が、要は、晩御飯の献立も、受験も、全ては、将来と希望と平安のため(幸せのため)のものであると言える。結局のところ、神のご計画も人間の計画も、目指すところは同じなのだ。
 ところが、人間の立てた計画では、何故か、うまくいかない。殆どの人が苦しんでいる。戦いと争いが渦巻いている。幸せどころか、将来に不安を抱え、心に平安がない。
 どこに問題があるのだろう。考えてみれば、人間は計画は立てても、今やるべきことが出来ない。逆に、今するべきでないことをしてしまう。だが、神のご計画は、人間のそれとは違い、全てを見通したうえ絶好のタイミングで事を行う完全な計画なのである。『神のなさることは全て時にかなって美しい』のだ。この「神のご計画」に従うなら、ヨセフのように全ては益に変わる。ただ、だからと言って、決して自分の人生設計を放棄するわけではない。『しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である』(箴言16:9)のだ。
 主は、その「はかりごと」を実現させるために最善のタイミングを計っておられる。それが「いつ」かは分からなくとも、主のはかりごとはなる、と信じて、御言葉に従って歩もう。

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