預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

「名前のいらない神」の御名(出エジプト3:13~14)

 名前というものは他者との区別の為にある。その点、神は唯一なのだから、本来なら名前を付ける必要は無い。だが、いつの間にやら人間は偶像を作り、それらをも神と呼ぶようになった。
 そこでモーセは、「どの神なのか」と聞かれたら何と答えたらいいですか、と真の神に尋ねた。その時、神は「『わたしは在る』というものである」と言われた。それは『名前』ではない。「私は存在している」という主張なのである。そう言うことが出来る、それが「存在の証明」だ。例えば、「われ思う故にわれ在り」というある哲学者の言葉のように、人間が何かを思う(意識する)、それが存在の証明だということだ。その神が、ある時、「光よあれ」と言われた。そう思ったのだ。すると光が出来た。そのようにして天地万物、そして人間は生まれた。つまり、全てのものは「神思う故に在る」ということであり、人間は造られたもの(被造物)に過ぎない、ということだ。それゆえ人間は、存在ということに関して全くの無力である。自分で生まれることは出来ないし、自分の命を延ばすことも出来ない。しかし、復活し今も生きておられる救い主キリストを信じるなら、永遠の命が与えられる。まさに「神生きるが故にわれも生きる」のだ。なのに、その造り主なる神に逆らったから、人の世は、つらく苦しく悲しいものになってしまった。そして偶像を作り、神と呼び、拝むようになった。それが「罪」だ。そして「罪から来る報酬は死」なのだ。
 神は、罪人を地獄に落とす権威を持っている。「この方を恐れなさい」と聖書は言う。「キリストこそ神」と認め、「私は命を与えて頂いただけの者」と認めるべきなのだ。そのように、悔い改める者を天国に迎え入れることさえ神には出来る。
 神はモーセを遣わした。真の神を証し、人々を解放する為である。「私は存在している」と言うことの出来るお方、真の神、それがキリストである。この名前以外に救いは無い、と聖書は言う。私達も、この御名を証する為に遣わされていると言える。偶像に囚われ苦しむ人々を解放する為に、家族の救いの為に、まず自分自身が解放された(救われた)者として、その喜びを証して行こう。

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