預言書としての詩篇

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

続・毒じゃない!(創世記2:8~9、15~17)

 「食べてはいけないものを何故、わざわざ園の真ん中に生やしたのか」 それが多くの人の素朴な疑問だ。結果、人は、その実を食べてしまったのだから、ほら見たことか、と言うところかもしれない。が、しかし、見落としてはならない。蛇が惑わすまでは、その木は人にとって何の誘惑にも躓きの石にもなっていない。目もくれず、動物達の命名に勤しんでいる。つまり、神は決して「ほら見たことか」と言われるようなバカな事はしてはいないのだ。神は『ご自分でだれを誘惑なさることもありません』とヤコブ1:13にある通りだ。
 さて、木の実を食べて善悪を知った人間は、皮肉な事に、善悪をわきまえなくなった。まず、責任のなすり付けだ。それ以降、人間は罪と悪の深みに落ちて行った。何故なら「知る」という言葉は、知識ではなく、体験的に知る事を意味しているからだ。つまり「善悪を知る」とは「良い事も悪い事も実際に体験するようになる」という事なのだ。だから人間は誰でも、たまに良い事をし、時々悪い事をする。完全に聖い人などいないし、完全な悪人もいない。悪い親でも自分の子供には良い物を与える、と主が言われた通りだ。
 人は「命の木の実」は食べてよかったのに、それを選ばず「禁断の木の実」を選んでしまった。しかし、それでも「禁断の木」は置かなければならなかった。本当の自由の為には「最低限のルール」が必要だからだ。ゆえに神は、たった一つの、最善の、全てを満たしたルールを、人間を縛る為ではなく、自由を与える為に定めた。それが「神に従え」だ。そして、従うかどうか、その象徴として「禁断の木」を置いたのである。決して、木の実に毒があるから「禁断」なのではない。神が造った物は全て良い物だ(Ⅰテモテ4:4参照)。神に従わず、自分の欲望とサタンの声に従う事が「禁断」なのである。
 「命の木」は、今や救い主イエス・キリストとして私達の為に備えられている。同時に「禁断の木」(人間の勝手な欲望、サタンの誘惑)も常に隣り合わせだ。だからこそ主は、私を食べろ(マタイ26:26参照)と言われた。命を得る為に。十字架で開かれた「命の道」か、自分の欲望とサタンの声に従う「禁断」か、選ぶのは自分だ。

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