預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

医者じゃない!(レビ記13:9~13)

 皮膚に異常のある人を祭司が調べて、それがツァラアト(らい病の症状を含む重い皮膚病、NIVでは伝染性皮膚病)だと分かれば「けがれている」と宣言するのだが、紛らわしい場合は7日間隔離して、その後調べ直す。そのような処置は衛生的に妥当だと思われる。所が、「けがれている」と宣言された伝染病の患者を隔離する必要は無いという。それ以上に不思議なのは、その皮膚病が体全体を覆っているなら、その患者は「聖い」というのである。摩訶不思議だ。医学的にはどう考えても、聖いとは言えない。伝染しているのだから。しかし、その判定をしているのは医者ではなく、祭司である。つまり、これは医学的な問題ではなく、宗教的な聖さ・けがれについての教えなのだ。そして、それは他の旧約の教えがそうである(ex.創世記3:21がキリストの十字架の血潮によって義の衣が着せられることのモデルである)ように、新約聖書に現された神の御心によって理解されるのである。
 そもそも「聖」とは、混じり気が無い事を意味する。ゆえに、神に背いて罪が入った(混じり込んだ)人間は、神の前にけがれている訳だ。なのに、その事に気付かない、あるいは隠している状態を、レビ記では「部分的ならい病」に例えているのである。例えば、背中に小さな皮膚病(罪)がある。しかし、自分では見えないし、気付かないから何も問題を感じないかもしれない。しかし、その人は「けがれている」(神の前に罪人である)のだ。しかし、罪を認めて言い表す時、神は聖めて下さる(Ⅰヨハネ1:9)。その事をレビ記は「全身を覆ったらい病は聖い」と言うのである。何故なら、それは表されている(隠す事が出来ない)からだ。そのように、もし自分の内にある罪に気付いて、それを神に告白し悔い改めるなら、神はどんな罪も赦し聖めて下さる。その事のモデルとしての教え、それが「全身を覆ったらい病は聖い」という事なのだ。イザヤは言う。たとい、あなた方の罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる、と。神の約束は真実だ。私達は、救われたのちも、失敗し、御言葉に背く事があるかもしれない。また、苦しい時も、つらい時も、事あるごとに祈ろう。神は全ての悪から聖めて下さる。

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