預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

死人が生き返るより、もっと!(ヨブ記42:7~17)

 罪を隠しているから災いに遭うのだ(すなわち、正しい信仰者は繁栄する)とヨブを責める友人達に、「真実ではない」と神は言われた。
 ヨブは彼らの為にとりなして祈った。すると、その時からヨブへの神の祝福が始まったという所に目を留めたい。「真理の書」と呼ばれるヨブ記、詩篇、箴言だが、例えば詩篇109:17にも「彼はまた呪う事を愛したので、それが返って来ました。祝福する事を喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました」と逆説的に言われている通りだ。つまり、もしかしたらヨブも、自分を責め苦しめた友人達を憎んだかもしれないけれども、とりなして祈った時に祝福が来たという事だ。財産は以前の2倍となり、子供達も10人与えられた。
 だが問題は、果たして、それを「祝福」と受け止める事が出来るのか、だ。先に死んだ10人の子供達はどうなったのか。死んだ子が生き返ってこそ「祝福」だとは考えないのだろうか。いくら新しい子供が出来ても、死んだ子の代わりにはならない。財産が増えたから、もう、どうでもいいという事なのだろうか。
 いや、ヨブには、それを祝福として受け止める信仰があった。それは「天国でまた会える」という信仰だ。だから彼は、あえて、子供達が生き返る事を求めなかった。地上で死に別れる、それは哀しい事だけど、だからこそ天国で会う、その時には、何にも優る喜びとなる。その希望を持ちつつ、新しく生まれた子供達を愛して幸せに暮らす事が出来る、それこそが「前の半生に優る祝福」、本当の祝福なのだ。
 結局の所、人間の地上での人生における祝福というものは、天国があってこそ意味のあるものなのだと言える。そうでなければ、どんなに大金持ちになっても、成功しても、死んだらおしまいで、苦労も努力も全て水の泡となる。それを主は「自分の為に蓄えても、神の前に富まない者」(ルカ12:21)と言われた。
 神の前に富む者とは、ヨブのように「天国が約束されているからこそ、地上での労苦が報われる」という事を知っている人なのだ。その人は、どのような苦難が襲って来ようとも、決して挫ける事なく、たとえ倒れても立ち上がって進んで行く事が出来るのであり、それゆえに、その人の地上での人生は祝福で満たされたものとなるのである。私達も、そのような「神の前に富む者」となろう。

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