預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

知ってるけど、知らないなら(Ⅰサムエル3:1~10)

 少年サムエルは主の宮で仕えていたのに、自分を呼ぶ主の声に気付かなかった。それは「まだ主を知らなかったから」だという。どういう事か。それは例えば、クリスチャンも「イエスが主である」事を知っている。主が「休ませてあげる」と言われた事も。しかし、主の元(教会)で重荷を降ろす事が出来ていない(疲れ果てている)とすれば、それはまだイエスの恵みを知らないのかもしれない。つまり知るべきは、神ご自身の素晴らしさ、御言葉の真実だ。それらを身を以って知るべきなのである。
 ここでサムエルは転換点を迎える。神に向かって「語って下さい、教えて下さい」と言いなさいと師匠に導かれたのだ。神は求める者に真理を教えて下さる。そして神ご自身が真理そのもの(ヨハネ14:6)である。すなわち、真理を求めるという事は「神ご自身を求める」(ヘブル11:6)事でもあるのだ。その人に神は報いて下さる。そう、神ご自身(真理)を求めなければ神に喜ばれないとヘブル書は言うのである。そして「求める者には与えられる、誰であっても」(マタイ7:7~8)と主が言われたのは、この事(聖霊によって真理を悟る事)である。
 その後サムエルは成長し、神の栄光を現す。ポイントは何か。何が「転換」したのか。それは「主が彼と共におられ」(19節)という所だ。それまでは、サムエルが主の元にいて仕えていた。けど、主を知らなかったのである。それが、神を求め、神を体験してからは、神が彼と共に居られるようになったのである。これが重大なポイントだ。
 ヨセフも幸いな人となった(創世記39:2)。主が共にいたからだ。決して全てが順風満帆ではない。ただ「主が共にいる」事自体が「幸い」なのである。何よりヨセフは紆余曲折の末、民族の救いとなる。そこに救い主キリストの姿(苦しみの末に救いの道を開く)が現わされている。つまり神は、神を愛する者の為に「全てを働かせて益と変えて下さる」(ローマ8:28)、最後には完全な救いに導いて下さるという事だ。
 その神の真実、恵みを知らずに必死に神にしがみ付いても楽にはならない。しかし、神が共にいる(神が味方)なら勝利を得る事が出来る。私達は、神の恵みを知る者となりたい。恵み深く、慈しみに満ちている、それが神だと知る事の出来るように神に求めよう

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