預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇77(型紙は、服じゃない!)

 心に響く、それ故に愛される、それが詩篇だ。が、この1~3節はどうだろう。「苦難の日に神に祈りの手を上げた」……それはいい。しかし「私の魂は慰めを拒んだ」とはどういう事か。神が拒んだならまだしも(例えば、パウロの求める癒しに神は応えなかった。それは神の主権だから仕方ないが)、自分で求めておいて自分で拒むとは、心に響くどころか支離滅裂である。
 実はこの詩はバビロン捕囚の時の事を詠っている。錯乱する程の苦しみの中にいたという事だ。それで詩人は「神に見捨てられたのだろうか」と思って言う(4~9節)。その後、「いや、そんなはずはない。私が弱っているのは『神が心変わりした』と思ってるせいだ」と考え直し、「さあ主の御業(神の救い・出エジプト)を思い起こそう」というのが10節以降だ。神への信頼を自分の中に取り戻す為にそれは良い事である。しかし、この詩はそれを教えたいのではない。確かに神はイスラエルを奴隷から解放した。だが、そのような地上の問題は(例えば、病も)一つ解決してもまた繰り返される。事実、イスラエルはそののちローマに滅ぼされ、ついには国を失い、世界に離散する。
 だから問題は、神の救いとは何か、である。12節で詩人が言うように「神の御業の意味をよく考える」必要がある。つまり、イスラエルに示された「神の計画」は何か、だ。
 そこには一つの「型」がある。「エジプトでの奴隷からの解放~カナン」と「バビロン捕囚からの解放~エルサレム帰還」だ。すなわち「神はイスラエルを見捨てない」という事、それがある意味「型紙」なのであって、例えば型紙に沿って生地が(複雑な形を容易く)裁断され洋服が縫われるように、その「型」に沿って、救い(義の白い衣)が出来上がるのであり、神は、その衣を人間に着せたいのである。
 罪と死の奴隷から人間を救い出して約束の地(天国)へ導く、その「型紙」が「出エジプト」であり「バビロン捕囚からの解放」なのだ。そして救いの「型紙」を示す聖書は、私達を「地上の事だけではなく、天にあるものを想いなさい」と導く。「あなたの心のある所に宝がある」のだ。主の御業を想い、救いを喜び、御心に沿って歩もう。

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