預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

手抜き禁止?(申命記6:4~5)

 モーセは「絶対忘れないように」と念を押して教えた。そして、これが「一番大切な戒め」だと主は言われた。それ程に大切だという事は、それ程に実行が難しいという事でもあると言える。何故なら、放って置いても自然に出来る事ならわざわざ戒める必要が無いし、大事な事に限って、無理にでもさせなきゃやろうとしない、それが人間だからだ。神を愛するという事も、アダムとエバの時からの、人間にとっての最大の課題だと言える。それにしても「全てを尽くして……」は難問だ。手加減、手抜きなどもってのほか。楽をしようなど思ってはならないのだから。これは人間の性質と相容れない。人間は、とにかく楽をしたい生き物だ。文明の発達・便利な物の発明は、全てその為だと言っても過言ではあるまい。ゆえに、もし怠けようと思えば、頑張らなくても簡単に怠けられる。怠ける訓練は要らないのだ。
 それ故に戒めが与えられている訳だが、しかし、それでも「全てを尽くして……」は、しんどい。例えば日曜の礼拝で、余力を残してはいけないとするなら、月曜は仕事を休むのか。財布が空になるまで献げよと言うなら、教会からの帰りの電車賃はどうするのか。
 何が「一番大切」なのかだ。もし賛美に力を尽くさず手抜きをしたら地獄だろうか。礼拝中に昼食の心配を少しでもしたら滅びだろうか。いや、信仰において一番大事な事は「地獄に落ちないようにする」事であり、そうなってしまう理由は「神に背を向ける」からであり、それが「罪」というものだ。
 そこで、この「神を愛せ」という戒めの前提は何か。それは「神は唯一」(4節)だという事である。主があなたの神だから、他の神を愛するな(すなわち、主を愛せ)という事だ。決して他の神になびかないようにする、その事に「力も心も尽くせ」という事なのである。
 だから、疲れて全力で歌えない時があっても構わない。どんなに信仰が弱っても「他の神に頼らない」という事、それだけは「全力を尽くして」避けるべきなのだ。それが、滅びない為に「一番大切な事」だ。主が言われたように「どうしても必要なのは一つだけ」である。真の神だけを愛する(他の神を愛さない)事に全力を尽くそう。

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