預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

最も美しいって、私がか?(雅歌1:1~4)

 雅歌とは、歌の中で最も優れた歌という事だが、何がそんなに良いのか。一読すると単なる恋文のように思える。視点もコロコロ変わるし、意味不明な文もある。これ位なら簡単に書けると言う詩人もいるかもしれない。しかし、雅歌の素晴らしさは技巧的な良し悪しにあるのではない。誰に対するどの様な愛を歌っているのかがポイントだ。
 それは勿論、人間に対する神の愛だが、どのような愛か。まずは神は「人を救いたい」と愛して下さった。この意味においては全ての人は愛されている。これが全ての人への神の第一段階の愛だ。が、多くの人は、それを拒んでいるのだから、せっかくの愛も意味をなさない。しかし、その愛を受け取った人は「神の子(民)」とされるのであり、その人に対して神は「私の目にあなたは高価で尊い。愛している」と言って下さる。これが第二段階の愛であり、そこを雅歌は歌っている。「女の中で最も美しい人よ」と。勿論、女性限定ではない。人間を「女」に見立てて「黒いけれども美しい」と歌うのだ。つまり、人間はそもそも罪で真っ黒に汚れているけれども、そんな人間を救いたいと愛して下さった神の「第一段階の愛」を受け入れて「神の子」とされた人の事である。これが「歌の中の歌」と言われる理由の一つだ。つまり雅歌は「歌の形式で語られた福音」なのである。
 ただ、勿論、神の愛は最高だが、それを無にする事も出来る。それを拒む事によって。まるでゴミの様に扱われてしまうのだ。だから、本当に最高なのは、神の愛を受け取って喜び味わい、神を愛す事だ。そうであってこそ、最高の愛がその素晴らしさを発揮し、最高の愛の歌となる。それゆえ人視点である2~4節の中で、神との深い交わりを求めて語られているのである。神の臨在の中に入る事を切望するのは、それが無いと苦しくなるからだし、罪で真っ黒になっていた時の惨めな自分に戻りたくない(救われた喜びを失いたくない)からだ。
 結局、この個所の結論は「神を慕い求めよう」である。神との深い交わり(祈り、賛美、礼拝)、その中で聖霊の慰めを、神の恵みを、受け取ろう。そのようにして、神の「最高の愛」を本当に素晴らしいものとして、「女の中で最も美しい」と呼ばれる幸いな人となろう。

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