預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇80(例によって、アレだ)

 例によって、イスラエルは苦難の中にあり、詩人は「主よ、いつまで助けてくれないのですか」と訴える。そして14節から「主よ、どうか赦して」と求めるのだが、ポイントは17節「神の右の手の人」とは誰かだ。新共同訳では「神の右に立つ人」だが、その人は「神の為に強くされた人」でもある。その人に神の御手、すなわち「力・救い・助け・支え・祝福」を置いて下さいと言うのだ。
 基本、直接的にはこの詩は、イスラエルを助けて、と訴える詩である。しかし、イスラエルは「神の右に立つ」どころか、神に背を向けて(偶像礼拝の故に)苦難の中にいるのだ。「神の為に強くされた」どころか、不信仰の故に倒れたのである。これも例によってだが、イスラエルの事を言っているようで実は別の事を言っている、それが預言書としての詩篇だ。
 神の右に立つのは、キリストである(マタイ22:42~44)。そして、神の為に強くされ、十字架にまでかかられた救い主に、更に御手(力・救い)を、という事は、復活(救いの道の完成)を示唆する。そうして「私達が生き、元に返れる」ようにと願うのが18~19節だ。それは直接的には、イスラエルが捕らわれから解放される事を求めていても、預言的には、人間が救われて、元の(神と生きる)者となる事である。
 最後の裁きの時、全ての人が、神の右(救い)か左(滅び)に分けられる。右は羊、左は山羊だ(マタイ25:31~34)。キリストの血という代価で買い取られた神の羊、その人は神の元に返る。それも「神の右にいる人」なのである。
 キリストが神の御手によってよみがえらされたのは、そのキリストを信じる者が神の元に返るのを神が喜ぶ為である。だから「もしあなた方が、キリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられる」(コロサイ3:1)と聖書は言う。そして「主の右には楽しみがとこしえにある」(詩篇16:1)と聖書は約束している。その約束は本当だと信じよう。自分の願望ではなく神の約束を信じる、それが聖書の教える「信仰」なのだから。私達は、天にある「とこしえの楽しみ」を思って歩もう。

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