預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

若い頃は被告人として立った場所で今は

この際ついでに、いわゆる「玄海訴訟」の第二回期日での私の意見陳述も載せておきます。


以下


玄海原発差止等請求事件


意見陳述書
平成24年9月21日


佐賀地方裁判所 民事部 御中
原告 金 本 友 孝 


1.私は、昨年3月、福島第一原発事故のため、妻と、当時17歳、13歳、10歳だった3人の子どもを連れて、妻の実家がある福岡県へ避難してきた者です。それまでは、福島県いわき市で、教会の牧師として平和に暮らしてきました。しかし、原発事故で、それまでの生活は完全に破壊されました。
あの事故が起きるまで、恥ずかしながら、私は、東京電力と国に騙されてきました。原発は安全だと思い込まされていたのです。生活のすぐ近くに原発がある事は知っていましたが、さほど意識もせず、平然と、すぐそばを、いつも車で通っていました。「安全だ」という電力会社と国の言葉を盲信していたのです。しかし、見事に裏切られました。
2.昨年3月11日、あの大震災で、まず家の中がメチャクチャになり、ガスも止まり、水も止まり、あちこちで火事が起き、救急車や消防車のサイレンが鳴り響く、あたかも戦場のような非常事態になりました。そんな中、大阪にいる友人から「原発が爆発したぞ!今すぐ逃げろ!」というメールが届きました。3月12日の午後4時ごろの事です。信じられませんでした。「うそやろう?原発が爆発?そんな、まさか、まさか…」とつぶやくしか出来なかったのです。テレビでは、原発の情報は流れていませんでした。私は、「原発が爆発したってことは…広島…長崎…キノコ雲…」と、最悪の事態を思い浮かべました。そして、それは間違いではなかったことが後に分かりました。
すでに、地震の起きた11日から原発事故は始まっていたのに、福島県民である私達には、何の情報も伝えられていませんでした。原発は非常に危険な状態だったということですが、情報は入らず、水を手に入れる為に、子供達を4時間以上も野外に並ばせてしまっていました。私自身も、トイレを流す為の水を汲む為に、放射能が大量に漏れ出していた事も知らずに、外に出ていたのです。
3.その後も、国や自治体、東京電力から正式な情報の提供はありませんでした。情報は不十分でしたが、私たちの家族を、死の恐怖が支配していました。逃げたくても、道はふさがれ、ガソリンもありませんでした。救援物資もなく、放射能を恐れてボランティアも来ず、いつ大爆発が起こるのか、今か、今日か、明日か、という不安があるのに何も出来ず、とうとう「ああ、ついに、ここで死んでしまうんだ」と覚悟するようになりました。あの恐怖は、まるで、墜落する飛行機に乗っているようでした。翼が折れ、エンジンが火を吹き、機体に穴が開き、急降下していく飛行機。何も見えず、何も分からないまま落ちて行く、その恐怖。逃げ道はなく、ただ死ぬのを待つのみです。その時、私は、3人の子供達に言いました。「せめて、苦しまないで死ねるように祈りなさい」と。勿論、死んでほしくなんかありません。だけど、死ぬ事が避けられないのなら、せめて、せめて、苦しまないで…という親の気持ちです。
4.3月17日になり、ようやくガソリンが手に入りました。ですが、家の中にいたほうが放射能の影響が少ないのではないか、途中でガソリンが切れて立ち往生してしまうのではないかと思い、避難すべきか迷いました。また、避難しても、仕事のあてはありません。3人の子供たちを抱え、生活はどうするんだ、本当に食べていくことができるのかと思い、避難することに葛藤がありました。しかし死の恐怖から逃れるため、少しでも原発から離れたいと思い、避難することに決めました。この頃、いわき市民の約3分の2がいわき市から避難したと聞いています。それほど、原発は恐ろしいものでした。
5.私たち家族は、はじめは東京まで避難しましたが、原発がいつ大爆発するかわからないという不安があり、南へ南へと避難して、最終的には3月25日、妻の実家のある福岡県まで避難してきました。さすがに九州までは影響がないだろうと思い、幸いにも牧師としての仕事も見つけることができましたので、3月30日に、もういわき市へ戻らないことを決めました。
子供たちは3人とも、いわき市に戻りたいと言って強く反対しました。長男は、1人でもいわき市へ戻ると言いました。次男は、何も言えない状態で、ただおろおろとしていました。長女は、話をする間ずっと泣いていました。いわき市は、子供たちにとって、生れてからずっと生活してきた故郷です。すべての思い出がいわき市にあり、今でも帰りたいと言っています。ですが、いつ原発がまた爆発するかわからないところです。どんな影響が出るかわからない放射能に汚染されているところです。行かせるわけにはいきません。
6.今年の9月11日、朝日新聞に俵万智さんの記事が掲載されていました。「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え」「子を守る小さき虫の親あれば今の私はこれだと思う」など、10首とともに掲載されていたのですが、どの短歌も、私をはじめ、子どもを連れて避難を選んだ者たちの心の苦しみがよく表されているもので、大変感銘を受けました。こうした記事を通じて、少しでも避難者の苦しみを理解していただきたいと願います。
7.福島第一原発の事故で、多くの福島県民の生活が崩壊しました。私は幸運にも九州で職に恵まれ、家族で生活することができていますが、父親が仕事のために福島を離れることができず、母親と子供たちだけで避難してバラバラに暮らしている家族はたくさんいます。子供たちを避難させることすらできない家族もたくさんいます。避難したくてもできない人たちは、避難できた人たちを責めるような言葉を口にします。福島の人々の気持ちはバラバラになってしまいました。
8.あの日、日本は危うく壊滅しかけました。最悪の事態は免れたと言いますが、私たちの家族を含め、多くの人たちが避難を強いられ、生活がぼろぼろになってしまっています。子供たちが浴びてしまった放射線で、これからどんな影響が出るのか、不安で仕方がない毎日です。それなのに、国は、電力会社は、なぜ原発を続けることに固執するのでしょうか。やめるべきです。
私たち家族は九州まで避難してきましたが、ここにも玄海原発がありました。日本中、どこへ逃げても、原発の影響がないところはありません。これ以上、金儲けの為に国民を、子供達を危険にさらすのはやめて下さい。「安全です」とか「責任を持つ」とか言いますが、人の命の責任を、どう取るというのでしょうか。神様でもない限り、命の責任なんか取れるわけがありません。
世界に原発が存在し続ける以上、いつか必ず同じ事が起こるはずです。再び起こる悲劇を防ぐには、今、原発をなくす決断をするしかありません。
私は、福島で原発の恐ろしさを肌で感じ、死の恐怖を味わった者として、このことを強く訴えます。


以上

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