預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇82(裁きは喜び!)

 1節の「神は」の次に出て来る「神」は「エール」(力ある者・権力者)という単語であり、「神々」は脚注の通り「裁く者」の事である。つまり、神はイスラエルの権力者(宗教指導者)達の不正を裁くという事だ。彼らは本来なら、弱い者・貧しい者を助けるべきなのに、「悪者共の顔を立てる」(2節)のはどうした事かという訳である。
 確かに、信仰・宗教とは、人を救う為のものであるはずだ。人を苦しめる宗教などは間違っていると言うしかない。苦しめようと思っている訳ではないとしても、信じた結果、信者が苦しむとしたら、それもどこかおかしい。ねじ曲がっている。それがたとえ、真の神を信じる信仰であったとしても、「間違っている」と言わざるを得ない。イスラエルの指導者たちがまさにそうだったのだ。
 では果たして、現在のキリスト教は「本当の信仰」となっているのか。勿論、キリストは道であり真理であり命だ。しかし教会は、その真理の道を歩んでいるのか。教会によって傷付けられたクリスチャンが沢山おられる現実を見るに、答えはノーではないだろうか。
 キリスト教は何を目指しているのだろう。信者を増やして世界を支配する事か。プール付きの豪華な牧師館を建てる事か。それらを拒否する必要は無いとしても、結局はそれらは、この世の事(過ぎ去るもの)である。しかし、信仰と希望と愛はいつまでも残る(Ⅰコリント13:13)。そして主は「なくなる食物の為ではなく、永遠の命に至る食物の為に働きなさい」(ヨハネ6:27)と言われた。それこそが本当の信仰・宗教指導者・羊飼いの姿だ。悪い羊飼いは羊を亡ぼすが、彼らは決して狼なのではない。一応羊飼いではある。ただし「悪い」のだ。
 羊が出来る自己防衛、それは「主の声を聞き分ける事」である(ヨハネ10:2~5)。色々な声(教え)がある。全て羊飼いの声だ。しかし、どれが主の声かを聞き分けなければならない。
 悪い羊飼いは神が裁く。それも「格別厳しい裁き」だ(ヤコブ3:1)。私達はただ、主の御声に聞き従おう。何が主の本当の教えかを聞き分ける事の出来る者となろう。主の羊(主のもの)であれば、裁きを恐れる必要はない。いや、正しい者は裁きを喜ぶのだ(詩篇82:8)。

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