預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

最終弁論まであと一週間

12月23日、福岡地裁にて「福島原発事故被害救済九州訴訟」結審の時を迎えます。
当日、原告団長として最終弁論をしますが、それに先だって、過去の裁判での意見陳述などを載せています。


今日のは、2015年、ある機関誌の要請に応じて書いた文章です。


以下


福島県いわき市からの避難者 金本 友孝


 私は騙されていた。愚かだった。「原発は安全、事故は絶対起こらない」という言葉は、見事にウソだったのだから。
4年前の、原発が爆発したあの時、震災で避難の道をふさがれ、どうすることも出来ず、何の情報も与えられず、まるで墜落する飛行機に乗っているかのように、真っ暗な中を落ちて行く、そんな恐怖を味わった。もうおしまいだ。そう感じた私は、3人の子供達に告げた。「せめて、苦しまないで死ねるように祈りなさい」と。
 紙一重で、最悪の事態だけは免れた。が、確かにあの時、日本は死にかけていたのだ。事実、当時の政府は最悪の事態(東日本壊滅)を想定していたという。それを免れたのは奇蹟だ。幾重もの偶然が重なってようやく首の皮一枚つながっただけなのだ。時の総理であった菅直人氏も、そう言っている。
 いったい、どこが「安全」なのか。何が「クリーン」なのか。今でも、「安全を確認して再稼働」などと寝ぼけたことを言ってる国と電力会社に言いたい。「人を死の危険に晒しておきながら、よくも平気で……」と。原発事故で死んだ人はいないから大丈夫、再稼働すると言うが、それは、「ナイフで刺したけど、死ななかったから、また刺す」と言うのと同じではないか。それに福島では、津波で死んだ人より、原発関連死の人数の方が多いのだ。
 私は怒っている。「命よりカネだ」と考えている人々に。彼らは「自分の命を犠牲にしてでもカネが欲しい」と言ってるのではなく、「他人の命を犠牲にしてでもカネが欲しい」と言っているのだ。それは泥棒の論理だ。
 原発は麻薬と同じで、最後は破滅が待っている。勿論、麻薬を断つには苦しみが伴うだろう。その苦しみを嫌がって、「原発が無いと経済が……」と言うが、しかし、どんなに苦しくても、やめなければならない、それが「原発」という名の麻薬だ。
 もしまた事故が起きたら……というような「仮定」をしている人は、今はもういない。「事故は起きる」という前提のもとに、避難計画を完全に立てようと言っているのが証拠だ。だが、避難しなければならないような事故が起きたら、もうそこへは(汚染されて)帰れなくなる。避難計画は汚染を防げないし、なにより、奇蹟はそう何度も起きないだろう。それとも、また奇跡が起きて助かるとでも思っているのだろうか。
4年前、命からがら生き延びた日本。その命を大切にしよう。

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