預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

「メリークリスマス」は死語となる

キリスト教国と思われているアメリカでは、ずいぶん前から「メリークリスマス」という挨拶をやめようという「脱キリスト教」の動きが起きている。ほかにも、学校に聖書を持ってきてはいけないと決められたり、その動きは止まらない。それは、多民族国家ゆえに、宗教も多様で、一つの価値観を全員に押し付ける事が出来なくなってきたからである。そこで、宗教色を排除する代替案として「ハッピーホリデイズ」が挨拶の言葉として定着した。やがて日本もそうなっていくだろう。むしろ、日本の場合は、そうなった方がいいという気がするが。なぜなら、日本におけるクリスマスの騒ぎは、もはや教会など足元にも及ばないほどの盛大さだからだ。それも、意味も知らず、中身のないどんちゃん騒ぎだから閉口する。「サンタの日」などは序の口、「恋人たちの日」は論外、「キリスト教のお祭り」は初級、「キリストの誕生日」で中級、その認識さえ決して多数派ではないかもしれない。ちなみに、うちのすぐ近くのお寺のイルミネーションが凄い。派手なデコレーションで目を引く。とても対抗できない。「へえ、教会でもクリスマスやるんですか」という笑い話もあながち嘘ではないのかもしれないと思える。
そのようにして「クリスマス」が骨抜きにされていく。ゴスペルが「みんなで歌う事」になってしまって、クリスチャンでもない人が市民講座でゴスペルを教えるように。発声練習の時に、ストレッチしながら「さあ、このヨガのポーズで宇宙と繋がりましょう」とチャネリングのようなことをし、挙句の果てに「ゴスペルではない曲も歌いましょう」となるように。
自分が信じてもいない神を祝うとはどういうことなのか、真面目に考えるなら、きっと「メリークリスマス」という言葉は日本から減少するはずだ。そうだ、クリスマスパーティという名称がよくない。忘年会って言ってくれればいいのに。それなら喜んで参加させてもらう。


「いと高き所に栄光が神にあるように」
神に栄光、それこそがクリスマスの正しい在り方だと言えるだろう。
今年も、静かに礼拝を捧げるとしよう。

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