預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

やってやった

きのうは、「福島原発事故被害救済九州訴訟」の結審で、原告団長として最終弁論をした。弁護士との事前の会議の段階から「普段の説教のような弁論を」ということになっていたので(それはすでに書いたが)、「ようし、じゃあやってやろうじゃないか」と臨んだ昨日、やってやりましたとも。はい。普段の教会での説教さながらに(歩き回りこそしなかったものの)身振り手振り、声を張り上げ、感情を込めて、生きるとは何か、人生とは何か、聖書の言葉を絡ませながら、原稿に無い事までアドリブで、言いまくってやった。満員の傍聴席からは拍手喝采。
本当は、法廷で拍手は禁止(私語も)で、拍手が沸き上がりかけるとすぐに裁判長が「拍手はやめてください!」と制止する。けど、このときは、拍手が鳴りやむまで裁判長は何も言わず、鳴りやんでから、申し訳程度に「はくしゅはやめてください」と言っただけだった。弁護士が言うには、「本当にいい弁論がなされたときは、裁判長は拍手を制止しない」んだそうだ。なぜなら、民意を敵にしたくないからだと。してやったり。胸がスーッとした。


一応、準備書面として提出したもの(文章)は、のちほど公開します。

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