預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

回って回って回る~うう?(ヨシュア6:1~5)

 7日間で合計13回、エリコの城の周りを回ると城壁が崩れた。この出来事から「13回回れば神のものとする事が出来る」と「祈りの歩行」なるものがいつ頃からか流行し始めた。勿論、祈って歩く事が悪いとは言わないが、これを真似したからって海の水まで奇麗になるなどとはにわかには信じられない。そもそも、7日間回ったという事は、安息日にも労働した訳で当時としては律法違反ではないか。そこは見て見ぬふりなのか、それともある注解が言う様に「戦争自体が礼拝行為だった」という危険極まりない思想に同調するのだろうか。
 思い出そう。新約が実体で旧約はシルエットだ。実体が球体ならシルエットが四角になる事はない。つまり、新約に無い教えを旧約から捻り出してはいけないのである。すなわち、「約束の地」であるカナン、それは天国を教える為のモデルなのだ。そして天国(神の国)とは「神の支配」の事である。そして主が「あなたの中に神の国はある」と言われた通り、心の中を神に支配して治めて頂く事によって得る平安、それがまず最初の「約束の地」なのであり、そのシルエットがカナンなのだ。所が、そのカナンには先住民がいた。特にエリコはその地域で最古の町だ。そして、そこに入って来た神の民を拒んで城門は固く閉ざされていた。これもモデルだ。私達の心の中にも古い人がいる。自分の立派さ、行いの正しさを誇ろうとする思いだ。その先住民は、後から来た「神の支配」を拒む。だから追い出さなければならない。つまり、律法主義等を払拭して神の支配「約束の地」を自らのものとせよという事、その様な新約を貫く教えのシルエットなのである。
 聖絶も、古い人・「行いの正しさにすがる気持ち」を追い出せという事のモデルだ。イスラエルが「それ」を惜しんで我がものとした事に神は怒ったのである。異邦人を殺すどころか、異邦人をも救う為に神であるお方が、逆に殺されて下さった。この神に信頼せよ、主の前に静まって力を得よ(イザヤ30:15)という事、それが「古い城・古い人」を攻略する方法だと教えるのである。
 私達は、どんな時も神に信頼して力を得よう。心の中に神の支配・平安を実現させて頂こう。その様にして約束の地を手に入れよう。

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