預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇83(神の沈黙? その理由)

 イスラエルを敵が包囲している、そんな状況で神は沈黙を続けている。何故、神は動いて下さらないのか。この問題は、遠藤周作の小説よりはるか以前、旧約時代の昔から存在していたのだ。
 歴史の事実として神は、いつも、毎回、全ての事に一つ一つ、細かく、介入する訳ではない。ステパノをはじめ、使徒達、多くの弟子達が無残にも殺されていった。神はそれをある程度、眺めているだけ……と言えば、そんなバカな、と驚かれるかもしれないが。
 それでも、ある人々は、全て(例えばサイコロの出る目も)神がコントロールしていると考える。この世界に偶然は無い、全て神の計画であると。ならば何故、神は、迫害されているクリスチャンを助けないのか。どうして神が沈黙するなどという事が起きるのか。何でも出来る(不可能は無い)はずなのに。
 神が手を出さない、それは実は、天地創造が完成した時からだ。7日目に休んだというのが、それである。それは、創造の手を止めたという事であり、休暇を取ったという意味ではない(神は今に至るまでずっと働いておられると主も言われた)。つまり、完璧なシステム(森羅万象)を造ったのち神は、もはやご自身の手を下す必要がなくなったのである。すなわち「手を出すのをやめた」のだ。しかし残念ながら人間の罪によって世界は歪んだ。その歪みのまま動いている世界の故に自然災害は起こるのであって、災害は決して神が起こした訳ではない。
 では神は、世界が狂ったまま放って置くのか。いや、介入した。それも最大の、2度と無い奇跡の介入を。それが御子を地上に送り十字架につけた事だ。信じる者の罪を赦し、この狂った世界を新しく造り直す(新天新地を与える)為である。神は、世界の嘆きを見て見ぬ振りしているのではない。救いの業を行っているのだ。ただ、それが完成するまでは世界は歪んだままなだけなのである。それゆえ、神が沈黙しているように見える事があり、逆に、憐れみによって奇跡をなされる場合もあるのだ(必ずしも、いつも、ではないが)。
 結局、敵はどうなるのか。滅びるのか救われるのか。どっちに転んでも最終的には、神は恐るべき方である事を思い知る(16~18節)。
 だから、神が沈黙しているように思えても、大災害が起きても、あるいは奇跡が起きたとしても、いずれにしても、神はおられると知る者であろう。そして神は既に最大最善の介入(十字架)をして下さった。この神を、どんな時も信頼して、神と共に生きて行こう。

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