預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇84(涙の谷を過ぎるときも)

 心が神に向いている(心の中にいつも神への思いがある)人は幸いだと言う(5節)。その人は、たとえ涙の谷を過ぎる時も、そこを泉の湧く所とする(6節)。これは詩篇23:4~5に通じる。その結論は「いつまでも主の家に住まおう」であるし、84篇も「主の家に住む幸い」を歌う(1~4節)のである。「主の家に住む」とは、真の羊飼いである主の羊となる事を意味する。その羊は主に守られるから幸いなのだ。羊を食い物にする「悪い羊飼い」が沢山いるからである。
 とにかく、何が何でも、神の家に住みたいと強調する(10~11節)。その為に詩人は祈る(9節)。「私達が盾とする人」「神が油注いだ人」とはキリストだが、新共同訳では、彼を「顧みて下さい」となっている。何故「キリストを顧みて」と言うのか。神はキリストをないがしろにしているのか。そう、神はキリストを見捨てたのだ。十字架で。だから「顧みて」と。それはつまり「復活させて」ということなのだ。そうすれば、信じる者にも復活の約束となるからである。そしてそれは、天の御国に住めるようになる事を意味する。実に、福音を預言する(キリストの十字架と復活を通してのみ神の国に入る事が出来る、それがどれ程幸いであるかを暗示する)詩篇と言えるだろう。主も言われた。たとえ片手片足を失っても御国に入る方がいい、と。
 その言葉(天国の約束)を信頼出来るかどうか(死んだらお終い、生きている間さえ良ければいいと思うか、それとも、生きている間だけでなく死んだ後も大事と思うか)、そこに神への信頼度が表れる。幸いなのはどっちか。それは神に信頼する人だ、と12節。その人は、神の家で喜び歌う。その道を歩みたいと心に願う人は幸いなのだ(5節)。勿論、その道には涙の谷もある。しかし復活の主が共にいて下さる(天国の約束がある)から、泉のように生ける水の川が溢れ流れて、生きる力・試練を乗り越える力が与えられ、ついには、天で神に会うのである(6~7節)。私達は神に信頼して、その道を歩み続けよう。ただし、その(天国への道を歩み続ける)為の力を自分の中に探そうとしてはいけない。見つからない。天国に行くための力は、神にあるのだから。それを知り、御国への道を思う人は幸いなのである(5節)。

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