預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

初めに、終わり(創世記1:1~5)

 創世記1章とヨハネ1章は共に、世の始まりについてを語る。だが、大事なのは、それが、どの様にして出来たのか(プロセス・メカニズム)ではなく、誰が造ったのか、だ。極端に言えば、神が造ったという事さえ分かればいいのである。所が「聖書は、書いてある通りそのまま信じろ」論者は、天地創造のプロセスも、創世記の記述通りをそのまま信じる。それはもはや、書物信仰ではないだろうか。聖書は、そこに込められた神のメッセージ(意味)を汲み取って、それをそのまま信じる事(すなわち、聖典的聖書解釈)が必要だ。もし、文字通りに信じるなら、聖書の記述の食い違い(例えば、創世記6:10ではハムは次男だと思われるが、9:24では三男。他にも多数の矛盾がある)をも全てそのまま盲信するという事になる。そもそも創世記は、宇宙の仕組みを教えているのではない。人間がどの様に神から離れたかを教えているのである。加えて言えば、神は「無から有を生み出した」と言われる。そして、まず初めに光を造ったと。だが、2節を見ると、光より先に「形の無い地」と「闇」と「水」が存在しているではないか。「無」は何も無いから「無」であるのにもかかわらず、だ。
 決して、聖書の粗探しをして聖書を否定しようというのではない。ただ「単純に信じる」という信仰の在り方に疑問を感じるのだ。少なくとも聖書は「聖霊によらなければ」本当の信仰を持つ事は出来ないと教えている。つまり、信仰は神が下さるものなのだ。だから、天地創造を科学的に理論づけようとするなら、それは信仰ではない。そこに秘められたメッセージを悟らせて頂いて信じる、それが信仰なのだ。
 そこで2節だが、論理的には破綻している。理解不能、別世界、想像不能である。そう、これは「永遠」の描写だ。永遠とは人間の理解を超えた別世界である。その様に、神は人の理解を超えて存在しているという事だ。そして「初めに、神が天と地を創造した」、それは神は(世界の、命の)初めと終わりを知っているという事でもある。それは人間のあずかり知らぬところだ。そう、初めに神が世界を造った。そして、終わりに神がもう一度世界を造る。新天新地である。これが聖書のメッセージであり、一番大切な事だ。その神の約束を信じて歩もう。

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