預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇85(本当の勝利)

 イスラエルにとっての大きな嘆きと悲しみであったバビロン捕囚から解放されて、詩人は喜びつつも、何故か「まだ救って下さらないのですか」と嘆き祈る。イスラエルは、赦され救われたのではないのか。神は、赦した振りをしただけなのか。もっと良い人間にならなければ救われないのか。いや、確かに神はイスラエルを赦し、解放した。しかし民が還った場所エルサレムはバビロンに破壊され荒れ果てたままなのだ。赦されても、その現実問題は残ったままなのである。これは一つのモデルだ。私達も捕らわれから解放され救われた者である。悔い改めた故に赦された、それは間違いない。だが、まだ天国ではない。現実問題の真っただ中にいる、その事を暗示しているのである。
 そこで詩人は「救いを与えて」と祈る。赦され解放された(けど現実問題山積みの)者にとっての更なる救いとは何か。癒し、奇跡、繁栄か。それが勝利なのだろうか。そう考えるなら、老いて死ぬ事は敗北となるのではないか。何故なら、死も病も、罪の故に人間に入ったものであり、それらは同一線上にあるものだからだ。
 世に勝つとは何か。世に生きる限り、肉体を持つ限り、死と病は決して無縁ではない。だが、病であっても、永遠の命の希望を持って生きる、それが勝利ではないか。絶える事の無い現実問題、その中での救いとは、問題に押し潰されず、乗り越えて力強く生きる事だ。その勝利は、御言葉に導かれてこそ辿り着く事が出来るものである。
 ゆえに詩人は『神の仰せを聞きたい』(8節)と言う。御言葉は『平和を告げ』るからだ。それを聞く者が、愚かな生き方に再び戻る事の無い為だ。『御救いは主を恐れる者達に近い』のであり、そこに神の栄光が現わされる(9節)。
 恵みと真、義と平和(10~11節)、それらは神の御性質であり、切り離せないものだ。そして、その『良いもの』を一つも欠く事なく与えて下さり、御霊の実を結ばせて下さる(12節)。愛・喜び・平安…、幸せの為に必要なもの、それらを主が下さる、それが人生の勝利だと言えるだろう。その主の道(御心)は、真っ直ぐに整えられる(13節)。
 救いは、御言葉の真理を聞く事、そこにある。

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