預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩編87(素晴らしい事)

 神の都シオン(エルサレム)について『素晴らしい事が語られている』と言う。それは、イスラエルを苦しめていた敵国民が「エルサレムで生まれたものとみなされる」という事だ。一聴すると、あたかも、シオンこそ世界の中心(地球政府の首都)として神が選んだかのようだ。これを鵜呑みにすると「ユダヤ化を拒む者は滅ぼす」というような恐るべきナショナリズムになりかねない。まことに、人類の初めから変わる事無く「御言葉の誤解が全ての不幸の始まり」なのである。
 旧約聖書は新約聖書を通して理解しなければならない。この「素晴らしい事」は、それが書かれてから約1000年後の初代教会において成就した。異邦人(神に敵対していた者)も、信仰によって神の民とされるようになったのである。それゆえ今、私達もその恵みの中に加えられているのだ。更に言えば、私達は本当にエルサレムの住人となる。と言っても引っ越しする訳ではない。やがて来る新しいエルサレムに入るのである。そここそ真の神の国の首都(世界の中心)であり、元々そこで生まれた子であるかのように、神の子として住むのである。その幸いと恵みを「素晴らしい事」と、この詩は預言しているのである。
 しかし、シオンについては「誰もかれもが、ここで生まれた」と言われる(5節)。これは、新しいエルサレムに入った人達には何の差も無いという事である。つまり、肉のイスラエルは特別ではないという事だ。誰もかれもが、信仰によって(元々そうであったかのように)同じ神の子となれるのである。その時、世界中の国々から来た(かつては異邦人であった)神の民が「この民はここで生まれた」と新しいエルサレムに登録されるのだ(6節)。この預言を解き明かすかのように主は言われた。「沢山の人が東からも西からも…」と(マタイ8:11)。そしてパウロも(参照エペソ2:11~19)。それが真のイスラエルであり、神がイスラエルを愛したというのは、そういう事なのである。そして本当の神の子(真のイスラエル)は言う。「神こそ私の泉(全ての源)」と(7節)。神なくして私は無い。それが本当の神の子だ。新しいエルサレムに入れば当然そうなるが、そこに至るまでの地上の歩みも、神の子らしく「神こそ私の泉」として生きる者であろう。

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