預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇89(そこに希望がある)

 「神は偉大」と誉め、「ダビデは凄い、誰も勝てない、神のダビデへの契約は変わらない」と称えるのが37節までの前半部分だが、後半(38節から)でいきなり「しかし」と雲行きが怪しくなる。油注がれていた(20節)はずのダビデを神は捨てたと言うのである。それが45節まで続く。「破らない」(34節)と約束された契約はどうなったのか。
 当然、主への抗議が出るが、答えが無いまま終わる。その終わりの言葉が何故か賛美の言葉なのだ。詩人自ら「ダビデに誓った恵みはどこにあるのですか」(49節)と神に抗議していながら、不思議だ。
 初めから見直すべきだろう。まず3~4節はキリストの事だ。それは天使が証ししている(ルカ1:30~33)。つまり、ダビデへの約束はキリストにおいて成就したという事だ。だから「その国は終わる事が無い」というのは地上の王国ではなく、キリストを信じて真のイスラエルとされた神の子達が入る「新しいエルサレム・神の国」の事なのである。ゆえに「ダビデは凄い」と称えていた詩篇89の前半部分は、実はキリストの救いの御業の事だったという訳だ。それで、キリストを拒むなら裁かれる(30~32節)、しかし信じる者に十字架の恵みは尽きない(33~37節)という事だったのである。そんな恵みを与える為にキリストは十字架で神に見捨てられて下さった、というのが38~45節の示していた事だったのだ。まさに預言書としての詩篇である。
 続く46節からまた抗議の言葉が続く。「神の恵みはどこにあるのですか」と。人生は虚しく、悲しみに満ちているのを見る時に、希望は見失われる。しかしキリストが十字架で見捨てられて下さった、そこに希望があり、神の約束がある。自分で自分を救えない人間に、救いの道を与える十字架、神がダビデに誓った恵みがそこにある。だから十字架に向かうキリストはそしられた(51節)。それこそが、神が約束を守った証である。神の約束は確かだ。それを信じるのが信仰である。
 現実は苦しみがある。主の恵みはどこにあるのか? 人生は虚しいとさえ思えたりする事もあるかもしれない。しかし、それでも十字架に神の恵みはある。キリストの十字架を崇める人は、おのれを滅びから救うのだ。神の愛の現れ(十字架)を褒め称え、喜び楽しもう。

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