預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇90(80からか、80までか)

 「人をちりに帰らせ」た神が「人の子らよ、帰れ」と言う。ちりになれ、滅びよ、という意味ではない。罪ゆえに死ぬ(ちりになる・土に戻る)者となった人間だから、神に帰れ(悔い改めよ)という事だ。永遠なる神こそ、帰るべき住まい(1節)なのである。その「帰る家」を持たないなら、人生は苦しく辛いものになってしまう。
 そこで4~12節は、人間の儚さを語る。ほんの僅かな年月を地上で生きる。なのにその年月は悲哀に満ちている。勿論、嬉しい事も喜びも幾らかはあるだろう。しかし「草は枯れ、花は散る」のだ(6節)。人生は決して長くはない。中でも10節は、信仰の根源的問題をはらんでいる。現代は医療の進歩によって若干寿命は延びているが、まあ大体、人生は80年前後と言えるだろう。聖書は真実(アーメン)だ。所が問題は、人の齢は120年(創世記6:3)との(矛盾する)個所を読んでも「アーメン」と受け取ってしまう事だ。そして「モーセは80から!」(だから自分も!)との威勢のいい宣言に対しても、だ。矛盾を感じようとしない、そこが問題なのである。
 果たして、人間は80までか、80からか。確かにモーセは80から神の働きを始めた。しかし、この詩で「人の齢はせいぜい80まで」と言っているのは誰あろう、そのモーセなのである。そして、それが神のメッセージとして聖書になっているのだ。「から」ではなく「まで」、それが基準だ。勿論、例外はある。例えばエノク。彼は死を経験せず、天に引き上げられた。だからと言って「自分も死なない」と言う人はいない。何故なら、エノクは特例だからだ。同じように、モーセも特例なのである。だから新約聖書で、モーセに倣って80歳になってから立ち上がって、死ぬまで目がかすみもしなかったというような人はいない。倣うべき信仰の父はアブラハムなのである。
 自分の願望を、神の約束だと思い込んではいけない。何でも強く信じ込めばそれが信仰、なのではない。それを間違えている場合が多いのである。これが、信仰の根源的問題だ。
 短い人生を幸いに過ごすにはどうすればいいのか。それは、神の本当の教えを悟る事だ。それを願う事の必要を、この詩は教える(12節)。

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