預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇91(とてつもない)

 主は、避け処、砦、あなたを救って下さるお方だと言う。その具体的な内容が4節以降であるが、これが、とてつもない。矢が飛んで来ても恐れないとか、病原菌をも寄せ付けない、みたいなことが言われている。私達は確かに、主を避け処としているが、それでも風邪をひくことくらいはあるし、矢が飛んで来たら平気ではいられないだろう。
 理解の糸口は11~12節だ。「荒野の誘惑」においてサタンが指摘したように、これはキリストについての預言だ。それはルカ4:28~30で成就している。他にも13節は創世記3:15を思わせるし、14~16節は復活のことだと理解出来る。つまり、91篇はメシア預言だということであり、あの「とてつもない」と思える守りもキリストについてなのだ。
 そして、このメシア預言は、キリストを信じる者への恵みをも示す。まず3~4節はこうだ。サタンはクリスチャンの罪を責め立てるが、神の義によって守られるということ。それは最後の裁きの時だけでなく、地上での日々の信仰生活の中でもだと言うのが5~6節。更に、神に背く者が幾人滅びようとも、キリストを信じる者は天国と言うのが7~9節。たとえ人類最終戦争が来ても神が守る、それが10~16節であり、これが、キリストを信じる者に与えられる恵み・究極の救いだ。
 そんな恵みが与えられる理由は何か良いことをしたからか。いや、何もしていないのに与えられる、それが恵みだ。あえて「何かをした」とするなら、それは9節にある通り、神を自らの住まいとした(避け処なる神に帰って来た)ということだ。
 そんな私達だから主に申し上げよう、と言うのが1~2節。つまり、神を自らの住まい(砦)とする者はそう言え、ということだ。ただし、ただ口で言えばいいという訳ではない。信じてない人でも「メリークリスマス」と言うように、口先だけなら何でも言える。だから、もし信じているなら本気で言えということだ。本気で神を避け処(砦)とせよ、そうすれば神が守る・完全に救う。世の終わりが来ても、言わば、神が避難所なのだ。だから、日々の生活の中に起きる嵐、大波の時も、主に祈り、賛美して、主に身を避けよう。口先や体裁でではなく、本気で主に信頼して生きる者となろう。

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