預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇92(安息日のための歌)

 主に感謝するのは「良い事です」と1節にある。だから、出来るだけ感謝した方が良いという様な緩やかなお勧めではない。新共同訳では、主に感謝する事は「いかに楽しい事でしょう」である。
 どんなに良い事(例えば、運動)も、辛いと感じるなら長続きはしない。しかし、主に感謝を捧げる事は楽しいのである。それも「いかに楽しいか」と実感しているのである。それは、自らになされた主の御業が大きいという事を知っているからだ(4~5節)。私達も、キリストを信じるだけで罪が赦され神の子とされた。それがどれ程大きな事か、どんなに有難いかを実感する。しかし、愚か者にはそれが分からない、と6節。だから、教会(賛美、礼拝)を楽しめるというのは素晴らしい事なのである。強制されて、あるいは、義務や規則では決して楽しめはしない。主も、放蕩息子の喩で、神の御心を代弁された。「失っていたものが見つかった、死んでいたのが生き返ったのだから、喜んで楽しむのは当然ではないか」と。そう、神から離れた罪人が神の元に帰って来た(救われた)のだから、喜んで楽しむのが当然なのである。その御心に背く事、それが「信仰を苦しいものにする事」だ。律法主義や、献金・伝道・奉仕の強要も、それらは神の御心に背く事であり、悪なのだ。そして、その悪が栄える(増える)が、それは滅びる為だと7~9節は言う。と言うのは、悪が栄えるのは滅び・裁きが近い証拠だからだ。主が言われた様に、世の終わりの裁きはノアの時と同じ、ソドムの時と同じく、地上に悪と不信仰が満ち溢れた時に起こるのである。世の終わりの前に大リバイバル…ではないのだ。
 しかし真理に立つ者は倒れない。たとえ陥れようとする者があっても、神の大庭で栄え、年老いても実を実らせる(10~14節)。つまり、永遠の命の中を生きる者は、感謝と喜びに満ちた豊かな人生を生きる事が出来るのだ。それが、いかに楽しい事か。その姿を見て、人々が神を崇める、それこそ世の光、神の正しさの証明である(15節)。
 結局、全ては表題「安息日の為の歌」に現されていた。神に信頼して平安に生きる(すなわち、安息に入った)者の生き方はこうだ、という事。それが、神を喜び楽しむという事なのである。

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