預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇93(神の家に相応しいこと)

 主は王・支配者だ、力があるのだと言う。勿論だが、だからどうしろと言うのかが不明だ。何より、1節の4~5行目は新約聖書の教え(この世は崩れ去る)と一致しない。聖書にも誤りはあるということか。
 いや、捉え所は4節(大自然の脅威を語る所)だ。つまり、人の力の及ばない存在・力というものを人は感じ、畏れ、それがゆえに時には信仰の対象ともするということだ。が、真の神は、大自然の力なんかよりもっともっともっと強い、と言うのである。この詩はそれを語っている。造り主なる神の偉大さ、威厳、みいつ、主は王だ支配者だと。
 だから人間は、真の神をこそ拝むべきなのである。なのに、現実はどうか。初めの人間は神に背き、世界は歪み、すべての被造物は呻き苦しむようになってしまった。そして、神の民のモデルとして選ばれたイスラエルでさえ(神が王であるのに)人間の王を求めた。さらに、救い主が来てもそれを拒み、キリスト教会が誕生しても人々は偽りを愛し、今も、福音より律法を重視し、天国よりこの世の富・繁栄を求める。神の造った「完全な世界」は壊されてしまっている。だから、「神がいるなら何故こんな不幸が!」と怒る資格は人間には無いのである。むしろ「神がいるのになぜ従わないのか」ということだ。
 本来ならどうあるべきか。神が王・支配者なのである。だから「神の定めは間違いが無い」と言うのが5節の1行目だ。それを認め受け入れる(聖書の教えを自らの人生の礎とする)ことが、口先ではなく、本当に神を王とするということだ。そうすれば、神が造った、最初の完全な世界がその人に回復する。神の守り、恵み、愛を受けるのであり、やがては神の国(永遠の御国、揺らぐことの無い世界)に入るのである。神はそれを定めた。その定めは真に確かであり、そのような真実こそが神の家には相応しい。それが5節の言う所だ。「聖なること」混じり気の無い純粋な教え、神の家・教会にはそれが相応しい。
 私達は、それを求めよう。そして、神を王・支配者としよう。いつまでも。そして、真に確かなる神の教え・定めを喜びとしよう。そうすれば、揺らぐことの無い神の国を自分のものとすることが出来る。その様な信仰が神の家・教会には相応しい。

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