預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇94:1~15(指導者だからといって善とは限らない)

 神の民も弱者も苦しめ殺す、そんな悪者への報復を詩人は神に願うが、その悪者は異教徒ではない。真の神を知っていながら神を侮る者だ(7節)。そこで詩人は怒りに満ちて言う(8節)。その言葉にある通り、悪者とは『民の中の間抜け者共』、すなわち、イスラエルの宗教指導者達なのである。主も彼らの事を「白く塗った墓」と忌み嫌われた。
 何が責められているのか。それは本来、宗教(特にその指導者)は、人を助けるものであるはずなのに、逆に人を苦しめているという所だ(詩篇82:2~4参照)。だが彼らは悟らない。キリストを殺す事が神に仕える事だと思い、律法で縛り付ける事が正義だと考え、今で言えば、善人になる事がクリスチャンらしい事だと信じている。
 だから「気付け」と詩人は言う。「神が気付かないとでも思っているのか」と。そして「主は、人の思い計る事がいかに虚しいかを知っておられる」と(9~11節)。「人の思いの虚しさ」とは「律法を守ってるから義人だ」という考えの事だ。あるいは「いつも笑ってなければクリスチャンらしくない」とか「右を打たれたら左も出さなきゃ」とか「クリスチャンはこうあるべき」というような戒め、それらが神の目から見れば、いかに虚しいかという事である。
 救いは行いにはよらない、それが福音であり、神の定めた救いの大原則だ。なのに行いを最重視する、それが神の怒りを買うのである。
 宗教指導者が言葉で失敗する(神の言葉を曲解する、偽りの教えを語る)事を「滅びに至る」と聖書は糾弾する(ヤコブ3章)。神を知りながら、御心に反する事を口にする、それは「同じ泉が甘い水と苦い水を出すような、あってはならない事」だ「格別厳しく裁かれる」と言うのである。それ程に神の怒りを買う、それが「偽りの教え」だ。
 しかし幸いなのは純粋な神の教えを聞く人だ。その人は世の終わりにも平安。主が守る(12~14節)。そして15節、新共同訳では「正しい裁きは再び確立」する、すなわち、神の完全な支配が戻る(神の国が現れる)時、神の純粋な教え(真の羊飼いの声)を知る人々は、その声に従って、御国に入る。つくづく、詩篇は預言書だ。この、はっきりと示された私達の歩むべき道(御国への道)を共に進もう。

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