預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇94:16~23(掟の悪用)

 御国への道を阻む、その「悪を行う者」から誰が助けてくれるだろうかと詩人は言う(16節)が、どうやら誰もいないようだ。それで「もしも主が私の助けでなかったなら」(17節)と、主以外に助けは無いことを詩人は思う。ただし、これは「御国への道が阻まれる場合」のことであって、他の場合になら、人も助けになってくれることがあるだろうから、「鼻で息をする人間を頼りにするな」というイザヤ2:22の言葉を無分別に当てはめてはいけない。神の家族は互いに助け合うのだから。
 とにかく、これまでと同じようにこれからも御国への歩みを助けて下いと、詩人は主に願う(18~19節)。勿論、牧師も羊飼いとしてその役目を担ってはいる。が、残念ながら悪い羊飼いが多い。その現実に目を背けていたら羊は滅んでしまう。だから、真の羊飼いだけが頼りなのであって、その声を聞き分けることが必要なのだ。
 続く20節の「破滅の法廷」とは新共同訳では「破滅をもたらすのみの王座」だ。通常は、命がけで民を守るのが王だが、この王は破滅しかもたらさないというのだ。それと同時に彼は「掟を悪用して労苦を作り出す者」と新共同は訳す。そう、祭司長など宗教指導者達のことだ。すなわち、悪い羊飼い、「民の中のまぬけ者共」である(8節)。それは今の時代も変わりはなく、「日曜は安息日だ、厳守だ。右を打たれたら左も出せ。無条件に赦せ。完全になれ」と民を苦しめる。そんな連中が神の仲間なわけがない、と言うのが20節後半である。徹底的に「悪い羊飼い」を批判するのである。彼らこそ羊を滅ぼす者だからだ(21節)。しかし「主は我が砦」と(22節)。世の終わりの時まで悪は蔓延るが、最後には神が裁く(23節)。その時、正しい者は主によって守られる。主が避け処だから、災い(世の終わり、死、地獄)を恐れる必要は無いし、「掟を悪用して労苦を作り出す者」の教えを恐れる必要も無い。神こそ砦、救いの岩、災いの時の避け処である。ただし、悪者の攻撃が無くなる訳ではない。最後の裁きの時まで攻撃は続くだろう。だからこそ詩人も、神の助けと守りを願うのだ(18~19節)。
 私達も、御国への歩みが守られるように、神の恵み、慰めを求めつつ、共に歩んで行こう。

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