預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

聖めとは(申命記14:2~21)

 食べてはならないものについてである。その中には豚も含まれているが、私達は普通に食べる。タコやイカも。では「食べてはならない」という戒めは何の意味があるのか。何故、神はそれを定めたのか。
 その定めは出エジプト直後に、律法として与えられた。そして律法の目的はキリストに導くことである。つまり、単に衛生的な注意ということを超えた、宗教的・霊的な教えであるということだ。そして、食べて良いものと食べてはいけないものの区別は、聖いか汚れているかで分けられているのであり、それは結局「聖」と「汚れ」を教える為のものであって、食べ物の問題ではないのだ。だから神はペテロに「食べなさい」と語られた(使徒10:13)。十字架と復活(救いの道)が完成したからだ。キリストへの養育係としての律法(聖と汚れについての教え)は、その役目を終えたからなのである。
 そこで、聖と汚れとは何なのか(それは、何を示すのか)。色々な考えがある。例えば「豚は反芻しないから聖くないというのは、御言葉を反芻することが聖め(世からの分離)だからだ」とか、その他。いずれにしても、聖くないものからの分離を教える為であって、要は、異教の習慣を取り入れないようにということだ。何故なら、それが偶像礼拝への入り口となるからだ。「主の聖なる民」(21節)は、そこから離れるべきであり、それがキリストへと導くことになるからである。
 ただ、旧約はシルエットであるので分かりにくい。しかし、だからこそ新約だ。そこに、このシルエットの実体がある。神の目に汚れと見えるもの、それは偶像、不法、偽り(Ⅱコリント6:14~18)。そこから離れよ、ということ。それが実体だ。
 神の御心は何か、何が良いことかをわきまえるように(ローマ12:2)と聖書は言う。豚ではなく「神抜きの(この世の)生き方に同調すること」が悪いのである。それから離れることが「聖め」だ。神は、それを望んでおられる。その御心を悟るのが「良いこと」なのだ。
 「この世に同調しない」すなわち「神抜きの生き方をしない」ということ、神との交わりの中に留まる、それが聖めであることを悟ろう。そして、偽りから離れて、完全な救いへの道を歩もう。

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