預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

この際、新約からもリマーカブルなやつを(Ⅰコリント7:7~15)

 夫婦の内、一方がクリスチャンなら、その夫(妻)は聖められている、と聖書は言う。これは、その夫(妻)が信仰を持っていなくても救われている、ということだろうか。
 聖書には難解な箇所がある。意見の分かれるところもあるだろう。しかし救いに関する教えだけは曖昧にしてはならない。
 救いの条件は何か。それは、ただ一つ、イエス・キリストを救い主と信じること。これは神が定めたこと(Ⅰコリント1:21)であるから、人間の勝手な解釈で曲げてしまってはならない。ゆえに、残念ながら、伴侶がクリスチャンである、ということは、救いの条件を満たしてはいないと言わざるを得ない。
 では、「その夫(妻)は聖められている」というのは、どういうことか。
 原文のアギアゾーという言葉は、「聖別」(神様のために取り分けておくこと)である。例えば、お店で「お取り置き」をしてもらうように。まだ、手に入れたという訳ではないけど、あとは代金を払うだけ、というような状態。つまり、まだ信じてはいないけど、そのための用意がなされているので、あとは本人が代金を払う(悔い改める)だけ、ということだ。
 救いの条件「信じる(悔い改める)」は必須であり、基本的には誰もパスすることは出来ない。しかし、伴侶がクリスチャンだという利点がある。それは、共に住む家族だということ。周りにクリスチャンがいない、教会にも縁がない、というような状況に比べれば、福音に触れるチャンスは豊富である。いつでも語って聞かせることが出来る。家族の救いは、あともう少しだ。語ろう。

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