預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

死というものに直面する今だから(Ⅱコリント4:16~5:4)

 外なる人が衰えると(老化、病…)気落ちし、心が弱るのが普通である。
 確かに、肉体はいずれ滅びる。しかし、それは魂の器に過ぎないのであって、私達は、地上の幕屋が壊れても、神の下さる建物があることを知っているから勇気を失わない。そして、その「天から与えられる住まい」を着たいと望んでいる。
 とは言え、決して、この地上の幕屋(肉体)を脱ぎたい(つまり、死にたい)と思うのではない、とパウロは言う。かえって天からの住まいを着たいのだと。どういうことか。
 勿論、肉体の死の後、天国で、それを着ることにはなる。その時、私達に罪の性質や不信仰、疑いなどは、もはや無い。あるのは、神への全幅の信頼である。
 その「神への全幅の信頼」を、天国に行ってからやっとのことで手に入れるのではなくて、もし今、身に付けることが出来たなら、私達は、今、外なる人が衰えても勇気を失うことは無くなるだろう。内なる人が強められるからだ。それこそが「この体を脱ぎたいのではなく天からの住まいを着たい」ということではないか。
 そのことによって、死ぬべきものが命に飲まれてしまうために、と聖書は言う。すなわち、光が闇に打ち勝つため。罪に打ち勝ち、問題を乗り越え、逆転勝利をもたらす復活の力が私達の中に働くために。
 今、私達は、地上の幕屋に留まりつつも、「天からの住まいを着る」ことを求めよう。それは、「神への信頼が強められる」のを求めるということである。

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