預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

持ちつ持たれつ(エペソ4:11~15)

 信仰は、知識や教理、神学でするものではない。例えば、「音楽はテクニックではなく心だ」と言うように。どんなに技術や知識が豊かでも、心のこもっていない冷たい音楽は感動を生まないのと同じく、どんなに知識・神学が豊かでも、神への信頼が無ければ、信仰の意味が無い。
 しかし、だからと言って、知識や教理が不要かと言えば、決してそうではない。それは、確かに「音楽は技術ではなく心」であるが、その大切な心を表現するための技術や知識が大いに必要であるのと同じように、信仰も「知識や教理ではなく、神への信頼である」のは確かだが、その堅い信頼を築くためには、しっかりとした教理・知識がなくてはならないのである。もし、無知や間違った教理(神についての間違った知識)を基に「神を信頼」するなら、それは、調子はずれで無茶苦茶な音楽のようになってしまう。あくまでも、確かな教理の上に神への信頼を築くべきである。
 そのために「キリスト御自身が、教会に教役者をお立てになった」と聖書は言う。その最終的な目標は、私達が教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることなく、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に成長することである。どういう面での「一致」か。それは、「主は信頼出来るお方だ」という信仰と知識の一致である。この信仰が、私達を強め、苦難を乗り越える力を与える。
 御言葉の確かな理解と知識を蓄えて、イエス様への信頼を、しっかりと築き上げよう。

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