預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇96(主に栄光を捧げてはいけない)

 嘆き・呻きではない、賛美の詩である。そもそもながら詩篇は賛美歌集なのだ。
 そこで改めて、賛美とは?
 まず「新しい歌」である。が、必ずしも新曲である必要はない。以前は知らなかった救いの喜びと感謝の歌、それが救われて初めて知る「新しい歌」だ。それを「主に歌え」とある通り、賛美は神に向かって歌っているかどうかが重要である。よくある「信仰の歌」は厳密には賛美の歌ではない場合が多い。更に言えば、ゴスペルは福音を歌うからこそ「ゴスペル」なのであり、福音は誰に向かって伝えるべきかと言えば当然、人にだ。必然的にゴスペルというものは歌詞が人に向かっているのだから、純粋な賛美とは言えない。
 そういう分類で言えば1~3節は、人に向かっての招詞だ。4~6節が純粋な賛美である。ただ「栄光を主に捧げよ」(7~8節)はおかしい。何故なら、栄光は初めから主のものだからだ。もし、それを主に捧げるとすれば、それは、栄光を自分のものとしていたということであり、お返しするとすれば、それは盗んでいたということになる。だから口語・新共同訳では「帰せよ」だ。栄光を自分のところに留めておくなということである。
 10節以降は賛美のクライマックス、天国に入る時の賛美だ。揺らぐことのない世界の到来、裁きのとき、被造物にも訪れる喜びのときである。その、終わりのときは「確かに来る」。その時に起きることは予想がつかないくらいの未曽有の出来事だろう。その時、「主を賛美せよ」とこの詩篇は言うのだ。何故なら、世の終わりの神の裁きは、キリストを信じ義とされた者にとっては救いのとき、喜びのときだからだ。そのとき、まるで迷子を迎えに来た母親を見つけた幼子の様に私達は、感動と涙を以って主を歓迎する、それが主の来られるときなのである。だから、そのことを歌うこの詩には賛美が相応しい。嘆き・呻きは要らない。
 この預言書としての詩篇を通して教えられることは、まず1~3節。人に向かって「さあ主を崇めよう」と招くことだ。「御救いの良い知らせ」すなわち福音を知らせよ、ということである。その福音を、まず必要とするのは神の子達である。福音の真実を知ってこそ本当に主の弟子となり、福音の恵み・自由・解放を味わうのであり、それゆえに主の証し(地の塩・世の光)となれるのだから。その様にして福音の恵み・神の愛を知ればこそ、4~6節のような本物の賛美が捧げられるようになる。
 やがて来る終わり(地上を去る)そのときに動揺することなく、喜びと感謝に満たされるために、福音を喜び、真理を愛し、主を崇めよう。

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