預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

旧約の記事を鵜呑みにしてはいけない(申命記7:14~15)

7:14 あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。
7:15 主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。



 約束の地・カナンに入ろうとするときの、神の最上の祝福、それが不妊の女性がいなくなることと、病がなくなることだ。これは神の約束だから絶対であるはずだ。ところが、その後も、不妊の女性はいた(例えば、ハンナが有名だ)し、病も消え去ることはなく、主の時代には病人だらけだった。神の祝福の約束はどこに行ったのか。
 一方、イザヤは「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え」(イザヤ54:1)と預言している。主も、ゴルゴダへの途上で、この言葉を引用して「不妊の女は幸いだ、と人々が言う日が来る」と言われた。するとますます、神の約束はどうなっているのか、と思える。「病は取り除かれる」との約束を信じても、癒されないから信仰を捨てるという事態が起きるのは、どこに問題があるのか。
 問題は、旧約聖書の教えを、そのまま生活に当てはめようとすることだ。例えば、エリコの城の記事を読めば、「そうだ、祈りながら街を歩こう」という風に。その方式で言えば、船など乗らず、海を割って水の間を歩いて行くべきだろう。しかし、そうではない。旧約には、意味がある。それを読み取らなければいけない。加えて、旧約はシルエットであって、その実体は新約だということも。そして、シルエットは、ぼんやりしてるということをも。そのぼんやりしたシルエットを明らかにする、それが新約なのだ。
 ガラテヤ4:22~27で、ハガルは「地上のエルサレム」、不妊だったサラは「上にあるエルサレム」だと解説されている。それがイザヤ54:1の意味だというのである。すなわち「上にあるエルサレムを幸いと言う日が来る」言い換えれば「天国に入る日が来る」ということだ。だから「約束の地に入るときの祝福の言葉」として(天国に入ったらこうなる、と)語られていたのが申命記7:14~15なのである。そこでは全ての人が神の祝福に満たされる、それが天国なのだ。
 このように、旧約と新約は繋がっているのであり、一貫して天国を教えているのである。だから、旧約を読んで、信仰を迷わせてはいけない。むしろ、天国の希望をいよいよ堅くするべきだ。キリストの教えの真実にとどまるなら天国。この神の約束は、絶対である。

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