預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇97(何でも、「喜べ、感謝せよ」ではない)

 喜べ、という聖書の教え、それは、地獄に落ちないで済むこと(救い)を喜べということである。その救いを教えるモデル、それが出エジプトであり、バビロン捕囚からの解放だ。それらは、信仰者が、この世での罪と死の奴隷から解放される(約束の地・天国に入る)という新約聖書の教えのシルエットであり、それが旧約聖書なのである。
 そこで、この詩もバビロン捕囚からの解放を通して「天国」を教えるのだが、その「救いの完成の時」=「世の終わりの時」に何が起きるか。まず神が裁き主として現れる(2~5節)。その凄まじい状況の中で主の救いと栄光が現れ、裁きがなされる(6~7節)。神の民にとっては勝利の時、報われる時だから大いに喜ぶ(8~9節)。
 その時のために悪を憎めと言う。何が悪か。偽りだ。逆に言えば、真理を愛せ、ということ。そうすれば裁きの時に救われる(10節)。そのための真理の光と喜びは種のように蒔かれている(11節)。つまり、救いのプログラムはもう準備出来ているということだ。罪人が救われるために足りないものはもはや無い。しかし、だからと言って無条件に誰でも救われる訳ではない。キリストを信じることが必要だ。そして「救いを喜べ」なのだ。救われた者しか喜べない、それが救いだ。ただし、キリストを信じる者は多いが、本当の弟子は少ない、そこが問題だ。
 ゆえに、最大のポイントは「御名に感謝せよ」(12節)なのである。この「御名」はゼーケル(ヘブル語で記念・記憶などの意味)で、出エジプト3:15では「私の呼び名」(英語で「私の記念」memorial of me)だ。何のことか。神がモーセを遣わした、それが「記念」であり、ゆえに神は「モーセを遣わした神よ」と呼ばれるということだ。
 だから「御名に感謝せよ」とは、決して、神の固有名詞YHWHとかヤーウェとかの名前のことではない。「モーセを遣わした神よ」と呼ばれる神の記念である「出エジプト」を記憶して、神の救いの計画(救いの確かさ)を感謝せよ、なのである。その様にして(救いを見失わないように)終わりの日に備えよ、その日に神は必ず救って下さるということを覚えよ、全てが報われるその日に喜ぶ者となるために、ということだ。神の記念(救いの計画)を覚えて感謝しよう。

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