罰が怖いから…ではなくて(マルコ3:1~5)
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
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律法によって『安息日に労働してはならない』と厳しく定められていたゆえに、パリサイ人達はイエスを責めた。そこで、イエスは『安息日にしていいのは、善か悪か。救うことか殺すことか』と問うたが、パリサイ人達は『黙っていた』。
誰が考えても簡単に分かりそうなものである。そう、パリサイ人達にも分かったはずだ。しかし、安息日に人を癒していたイエスを告発している手前、「救っていい」とは言えない。それで、彼らは黙っていたのだ。
律法を守る人は、何故、律法を守るのか。それは、律法を破れば呪われるからである。(ガラテヤ3:10参照) つまり「罰を恐れて良い子にしている」ということだ。例えば、「死刑になるのが嫌だから人を殺さない」というようなものである。しかし、本来は、「殺してはいけないから殺さない」というのが、あるべき正しい姿であるはずだ。結果的には同じでも、そこには大きな違いがある。信仰も「呪いが怖いから神に従う」のではなく「神の教えが正しいと信じるから、その通りに行う」というのが本当であり、それが「律法によって生きるのではなく、信仰によって生きる」ということだ。
そういうわけで、「礼拝に来ないと祝福されないぞ!」と脅されて、教会に行くのではなく、「神様に会いたいから礼拝に集う!」という者でありたい。
そのように、私達は、あらゆる場合に「信仰による生き方」を選び取って行かなければならない。その判断の基準は、ローマ12:2『神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る』ということだ。
イエスは言われた。『安息日にしていいのは、救うことか殺すことか』と。人を生かし、人を助け、徳を高める…それが『良いこと』であり、神に喜ばれ、御心に叶うことなのである。パリサイ人達にもそれが分かったとしても、彼らは、それを選び取らなかった。
私達は、それを自分で判断して選び取ることの出来る「信仰によって生きる者」となろう。