預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

達成できなくてもいいんです(Ⅰテサロニケ5:23)

5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。



 基本的にはクリスチャンは、既に霊的に聖められている。主の十字架のゆえに、罪の無い、聖い者とみなされている。しかし、それでもう安心か、もはや何も責められる所は無いのか、と言えば、そうではない。聖書は、私達の霊だけでなく、魂も体も、全領域において聖められるように、と言うのだ。そうでないと、いつか、主にお会いするそのとき、責められる、と。
 体については、肉的な罪を避けるように、と言う。それを拒む者は、神を拒んでいる、とまで言うのだ。その厳しさにたじろいでしまう人もいるかもしれない。しかし、恐れることはない。ここで聖書が言うのは、『聖められることを拒む者は』なのだ。確かに、私達は、肉体的に完全に聖いとは言えない。しかし、決して、聖められることを拒んではいない。いやむしろ、望んでいる。願っている。であるなら、主はそれを喜び、受け入れ、助けて下さる。聖霊によって、日々、栄光から栄光へと主の似姿に造り変えて下さるのだ。
 次に、魂・心において、ヤコブ4:8に『二心の人たち。心を清くしなさい』とある。これは原文では、『心を一つにしなさい』という言葉だ。ともすると、私達は、聖く真実な神様に対して、「信頼する」という心を持ちながら、同時に、「疑う」という心をも持ってしまうことがあるのではないだろうか。それは、心が分かれてしまっている。そのような『二心』をやめて『心を一つに』しなければならない。それが「聖い(=混じり気が無い)」ということなのだから。
 ヘブル12:14では、『聖められることを追い求めなさい』とある。聖書が要求するのは、聖めを完成させることではなく、追い求めることである。Ⅰテサロニケ5:24に『あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます』とあるように、聖めは、神がして下さることだ。だから私達は、求めながらも迷ったり、求めながらも諦めたり……という二心ではなく、一つ心になることを追い求めよう。

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