預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

捨てられる? クリスチャン(ルカ14:33~35)

ルカ 14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
14:34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」



 マタイ5:13で、「あなた方は地の塩だ」と主は言われた。つまり、世の中の腐敗を防ぎ、味のあるものとする働きをする、それがクリスチャンだということだ。だからもし、クリスチャンが塩気をなくしたら、この世は更に腐敗し、空しい世界となるだろう。


 ところが、ルカで語られているのは、味付けされる対象は「この世」ではなく、「塩自身」だ。つまり、もし塩が塩気をなくしたら、世の中が腐る以前に、「塩の存在意義」がなくなる(どうやって、それを取り戻すことが出来るだろうか)ということなのである。主の答えは、「出来ない」だ。もはや、捨てられるしかない、とまで言われた。
 確かに、『塩は良いものですが』と34節にある通り、クリスチャンの存在が世の腐敗を防ぐとしたら、良いものだ。主の弟子となる(イエス様に従う道を行く)のは良いことなのである。しかし、塩気をなくした塩は、何の役にも立たない。おしまいなのだ。


 では、クリスチャンの塩気とは何か。この世に対しての塩気ならば、それは、愛であり、正義、善い行い、厳しさ、清さ、憐れみ、喜びなどだろう。ゆえに主は、八福の教えに続いて「あなた方は地の塩だ」と言われたのだ。
 しかしルカでは、自分自身に対しての塩気だ。それは、14:33から分かる。クリスチャンの塩気、それは、自分の欲望の為に生きるのではなく、神の栄光の為に生きる、ということだ。その前提の上で、『ですから』と34節の、「そういう塩気のある塩(クリスチャン)は良いものだ」という言葉に続くのである。


 しかし、塩が塩気をなくしたら、もう何によっても塩気を戻すことは出来ない。すなわち、クリスチャンが、「神の栄光の為に生きる」という心をなくしたら(自分の欲望の為に生きるとしたら)、おしまいなのだ。
 この教えの最後に主は、『耳のある者は聞きなさい』と言われた。この言葉は常に、人々が見るには見るが分からず、聞くには聞くが悟らないことを嘆いて言われている。裏返せば、「聞いて悟れ!」ということだ。


 「塩が塩気をなくしたらおしまい」…これは悟るべき神の国の奥義だ。私達は、神の栄光の為に生きるという心を失ってはいけない。だからと言って、自分の財産を全部捨てるということも現実的ではない。地上においては、食べるもの、着るもの、などが必要だということは神も知っていると主は言われた。自分で働いて手に入れたパンを食べなさい、とも聖書は教えている。しかし、「なにはともあれ、神の国を第一に求めなさい」と言われた。その心、「塩気」を保つべきなのである。もし、地上での繁栄を最大の願いとし、そのために神を利用するとしたら、それは「塩気を失った塩」に等しい。

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