預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

何を見るのか(マルコ15:25~39)

15:25 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。
15:27 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
15:29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
15:30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
15:31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
15:32 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。
15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。
15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。



 主が十字架で死なれた時、3時間にも及ぶ異常な日食、地震、岩が裂けるなど、驚くべき出来事が起こり、多くの人々が自分の目でそれを見、体験した。


 「見たら信じる」と言う人がいる。
 しかし、ルカ16章でも聖書が言っているように、見ても、信じない人は信じないのだ。
 その点、主の十字架の真正面に立っていた百人隊長は、イエスの死に様を見て、「この方はまことに神に子であった」と信仰告白をした。
 何故、彼には「イエスは何者か」が分かったのだろうか。彼が見ていた「イエスの死に様」、実は、その死に様にこそ、救い主のなんたるか、が顕わされているのだ。
 例えばもし、人々が「自分を救ってみろ」と言った言葉に応えて、イエスが十字架から降りたとしたら、罪の贖いは完成しないのであって、人間は誰一人救われない。結果的に、イエスは他人を見捨てて自分だけを守った、ということになる。それは救い主でも何でもない。普通の人間だ。
 しかし、イエスは、そうせず、十字架で死んで、そのことによって人間の罪の赦しの道を開いて下さった。自分を犠牲にして他人を救ったのである。そして、これこそが、救い主なのだ。そのようなイエスの「死に様」を真正面で見ていた百人隊長には、イエスは救い主だと分かった。


 この事から言えるのは、主に向かい合うことの大切さだ。礼拝、賛美、祈り、御言葉(すなわち、教会の営み)を通して、主イエスと向かい合う(つまり、教会とは、神に会う場所なのであって)、そうすれば主がどのようなお方かが良く分かるようになるのだ。


 聖書は教えている。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい、と。目を離した(風を見た)ペテロは沈んでしまった。
 私達も、風評(人の言葉、自分の中から出て来る否定的な言葉)に目を向けると沈む。しかし、その時ペテロは、再び主に目を向けて、助けを求めた。すると主は助けて下さり、嵐は静まった。
 一部始終を見ていた弟子達は、『確かにあなたは神の子です』と言った。やはり、大切なのは、主に目を向けること、主と向かい合うことだ。御言葉に真剣に向かい合おう。目を背けてはならない。

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