預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

勇士なんか要らない(士師記7:2~7)

7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
7:4 すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」
7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」



 300人は水を飲む際にも注意深く「戦闘向き」だったから選ばれた、というのが定説だ。注解にも「注意深さを計るテストだ」とある。しかし、もし、それが本当なら、彼らが勝てたのは、戦闘向きだったから、ということになる。そういう兵士を選んだ「作戦」が良かった、と。さすがはギデオン、偉大な大将だということになってしまう。しかし神は「自分の力で自分を救ったと言わせないために」数を減らせとおっしゃったのだ。


 その結果選ばれた300人なのである。つまり、この300人は「自分の力では勝てない」人達だったのである。事実、彼らは戦いはしなかった。角笛を吹いて、壺を砕いて叫んだだけだ。その間に神が働かれた(19~22節)。まさに「自分の力で自分を救ったと誇らせないため」である。


 そもそも神はギデオンに「最も弱い分団で行け」と言われていた(6:14~16)。所がギデオンは怯えて、何度も神を試した。神はしるしを与えて下さったが、それでもギデオンは大軍勢を集めたのだ。だから神は「多過ぎる、減らせ」と言われたのである。そのままだと「大軍勢だから勝てた」と言うに決まっているからだ。その様ないきさつで最終的に残った300人は、言わば「最弱の300人」なのである。それもこれも「自分で救ったと言わせないため」だ。だから定説は、神の御心とは、まるで逆なのである。


 間違いの素は、旧約と新約を分離することにある。両者は一つであり、旧約の出来事の意味は新約に示されているのである。それがエペソ2:8~9だ。救いは「神の恵みのゆえに信仰によって」ということを見失ってはいけない。だから旧約においてもそれが教えられている、その一つがギデオンの300人(自分で自分を救えない)だ。決して、戦闘向きの注意深い者を神が選んだのではない。


 自分の力(注意深さ、能力、熱心)などで、天国か地獄かの戦いに勝つことは出来ない。神の約束を信じる信仰によってのみ神の子とされるのである。だから、ギデオンの様に人間の力を集めようとしてはいけないのだ。主は「小さな群れよ恐れるな」と言われた。大きくなるから、ではない。小さな群れでも、真実な信仰があるなら「父は喜んで御国をお与えになるから」だ。この御心を読み取ることが大切だ。

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