預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

いのち捨てれる?(ヨハネ21:15~17)

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。



 裏切った、ということにおいては、ペテロとユダに、さほど大きな差はないかもしれない。しかし一点、ペテロは悔い改めた。そこが違う。悔い改め(メタノイア)、それは方向転換という意味であるが、ペテロは、何を方向転換したのか


 主イエスは、ペテロに問うた。『あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか』と。かつてのペテロなら、「勿論です」と答えただろう。事実、「皆の者がつまずいても私はつまずかない」と言っていた。しかし、このときのペテロには、そんな身の程知らずなことは言えなかった。


 ちなみに、主イエスの問いかけた「愛」はギリシャ語の「アガペー(無条件の愛・神の愛)」だが、ペテロの答えた「愛」は「フィレオー(人類愛・兄弟愛)」である。しかし、当時、主イエスが話されていた言葉はヘブル語(あるいは、その方言のアラム語)であり、ヘブル語の「愛(アハブ)」という言葉には、ギリシャ語のような使い分けがないとされている。それでもヨハネは、福音書を記すにあたって、「愛」を使い分けるように、聖霊によって導かれたのだろう。


 主の為なら命も捨てると、まさに「アガペー」な愛を誇ったペテロに、「まだ、そんなことを思ってるのかい?」と主は尋ねたのではないだろうか。ペテロは自分の弱さを認めた。それでも、人間の全力(フィレオー)で主を愛する、と答えた。ペテロの主への愛は、以前のような、思い上がったものではなくなっていた。これが彼のメタノイアだ


 3度目に、主イエスは、「フィレオー」で愛するか? と聞かれた。心を痛めたペテロの答え、それはやはり、「フィレオー」だった。ペテロは、主イエスに名付けられたその名の通り、岩になった。何を聞かれても、ただ「全力で愛します」とだけ答えた。そして、『主よ、あなたはそれをご存知です』とも。


 パーフェクトな愛(アガペー)には程遠いかもしれない。しかし、自分のベスト(フィレオー)で、主を愛する、そのような愛し方へと、私達も進みたい。

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