預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇102(何でも叶う……ではない)

 バビロン捕囚の時の、絶望的な(いつまで祈っても何も変わらない)状態、その嘆きの詩的表現、それが1~11節。しかし、それでも神が神であることは間違いない。神が神でなくなることはないのだ(12節)。


 「だから信じて祈れ。いつか必ず答えられる」と、教会では昔から教えられてきた。確かに13~17節でも「神は必ず答えてくれる」と詩人は言う。だがそれは「どんなことでも祈れば叶う」という意味ではない「必ずバビロン捕囚から解放される」という意味である。何故なら、それは言わば「第二の出エジプト」であり、「キリストによる救い」のモデルだからだ。その神の「救いの計画」は必ず成るのである。だから詩人はバビロンからの解放を確信する。そう、この詩は「救いの確かさ」を教えるメッセージなのだ。聖書を文字面だけ読んで「祈れば何でも叶う」と信じ込むのは、霊の目が開かれていない(肉の目で見てる)ということだろう。


 で、そのバビロン捕囚のことで「新しく造られる民が主を賛美しますように」と言う。単なる子孫ではない。キリストを信じて新しく生まれる神の子・クリスチャンが神を崇めるようになるために、この詩を書くと言っているのである。すなわち、モデルである「第二の出エジプト」がバビロンからの解放によって実現したように、「第三の出エジプト=キリストによる救い」も必ず実現する、そのことでクリスチャンが神を崇めるようになるということなのだ。


 現実には(詩人も…23~24節)苦しみがある。しかし神の約束は変わらない(25~27節)。それはヘブル1:10~12で引用されている通り、キリストのことだ。救い主については、色々な方法で、昔から語られていたのである。それが「第一の出エジプト」であり「第二の出エジプト=バビロン捕囚からの解放」だ。それらが成就したように、「神の救いの計画・第三の出エジプト=キリストの十字架による贖い」は必ず成る。だから「バビロンからの解放」という事実を見て、神に信頼せよ、ということ、それが、この詩のメッセージである。そのことを「新しく造られる民」が知って「主を賛美しますように」と詩人は願い、のちの時代のために書き記した。悟って、主を賛美しよう。

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