預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇103:1~5(若返るってえ?)

103:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。



 102篇(神の救いの計画は必ず成る、と言うメッセージ)への応答の詩である(ゆえに「我が魂よ主をほめたたえよ」)と言われる。主は全ての罪を赦してくれた、命を贖ってくれた、こんなに良くして下さった、そのことを忘れるな、と言うわけだ。確かに、そのキリストによる救いの計画は実現した。信じる者は罪赦され、贖われた。しかしあなたの全ての病を癒し」(3節)は、実現していない。「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さはわしのように新しくなる」(5節)と言いながら、「あなた方は世にあっては患難がある」とも言われるし、確実に歳は取る。それを認めないなら、それは現実逃避か盲信だ。その様な信仰は、事実を認識できなくさせる。


 冷静に考えよう。3~5節は過去形ではなく未来形――将来こうなる、ということだ。いつ、全ての病が癒され、良いもので満たされ、若さが新しくなるのか、それは新天新地(天国)に入ったとき(復活の主と同じ栄光の体に変えられたとき)である
 その天国への道を開いて下さった(「世界の基の置かれる前から」立てられていたとエペソ書で言われる、神の救いの計画)、それが「主の良くして下さったこと」なのであり、それら(聖書全般において数限りなく語られ、実行されてきた神の計画とその実現)を何一つ忘れるなと言うのである。その計画に従って召された人々(クリスチャン)はこうなる、というのが3~5節なのだ。だからこそ、殉教した(良いもので満ちなかった)人も、年老いた(若さが新しくならなかった)人も、主をほめたたえることが出来るのである。


 そういう訳で、この世で全ての病が癒されるということではない。年老いて死ぬのが当たり前であり、世にある限り患難はある。しかし神の救いの計画は必ず成る。それを教えるのが102篇(第二の出エジプトであるバビロンからの解放)であり、その応答が103篇なのだ。


 加えて、地上の旅路においても、主はいつも共にいて、助け、支えて下さる。求める者に聖霊を与え、御霊によって真理へと導き入れて下さる。その「主の良くして下さること」も覚えて感謝しよう。それでも、全ての病が癒されるのは、天国でのことだ。その為に神がして下さった良いこと(救いの計画の数々)を覚えて主を崇めよう。

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