預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇22(クリスマスのメッセージ)

 主の受難を預言した「十字架の詩篇」である。その預言の通り、主は十字架の上で『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれた。本当なら、罪ある人間である私達が神から見捨てられるべきなのに、御子が代わりに見捨てられて下さった。信じる者の罪を赦すためだ。その為に(見捨てられて死ぬ為に)この世に来られた、それがクリスマスである。しかも、それは最初から決まっていたことである。救いの計画はアダムとエバが罪を犯した直後から始まっている。ゆえに父なる神は、御子を世に遣わす時点で既に御子を見殺しにする覚悟をしていたわけだ。神は、そこまでして救い主を送って下さった。だから、クリスマスは単に「誕生の喜び」なのではない。「見捨てられて死ぬことを承知の上で、それでも、人間を救う為に来て下さったことの喜び」なのだ。
 ところが、21節には『私を救ってください』という願いの後に『あなたは私に答えてくださいます』とある。見殺しにする計画だったはずであるのに、だ。どういうことか。それは、復活のことを言っているのである。復活(永遠の命の約束)こそが本当の救いであり、それを与える為に、あえて十字架の時には救わなかった(見捨てた)ということだ。例えば、ステパノが殺される時も、神は沈黙した。何故か。それは、ステパノを天に召す為なのである。それが全ての解決だからだ。ゆえに、神の御心に従っているのになお苦しみにあっている人々は『真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい』(Ⅰペテロ4:19)と聖書は言う。神は、必ず答えてくれる(永遠の命、新しい体が与えられる)からである。ゆえに詩篇22の後半は「喜びの賛美」となっている。『主を恐れる人々よ。主を賛美せよ』と。
 神は答えてくれる。神の約束は必ず実現するのだ。その証明、それがクリスマスである。初めからの計画通り、それは実現した。救い主は来たのだ。それも、御自身が見捨てられることを承知で、それでも来て下さったのだ。それほどに「永遠の命」という神の約束は必ず実現するということの証拠なのだ。だから、このクリスマスに、神の約束(永遠の命)こそが最高だ、という生き方をする決心をしよう。

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