預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇104(他人が、ではなく、私自身は)

 23節まで、天地創造の御業を、詩として自由な表現で語られている。その「御業はなんと多いことでしょう」(24節)と言う通り、まさに計り知れない、それが天地創造だ。ゆえに、その記述を文字通りに鵜呑みにする必要は無い。例えば「焼き尽くす火をご自分の召使とされます」(4節)は、天使のことであるとヘブル1:7で謎解きがされている。


 ポイントは27節以降だ。被造物は神(が餌をくれるの)を待ち望んでいると言う。28~29節によれば、神が餌をくれなきゃ死ぬとも。そうだろうか。これは基本的に詩であるが預言的でもある。


 ローマ8:19によれば、被造物が待ち望んでいるのは『神の子供たちの現れ』である。勿論、クリスチャンは既に現れている。しかし尚、待ち望む理由、それは「被造物も滅びの束縛から解放され、自由になる」その望みがあるからだ(20~21節)。


 というのは「被造物も呻き苦しんでる」からだという(22節)。つまり、人間の罪の故に、世界は歪んでしまったのであり、その歪みが癒される(新天新地の現れ・救いの完成がなる)のを待ち望んでいるということ(詩篇104:30)、それが「神の子の現れを待ち望む」ということなのである。


 そして詩人は言う。「主がその御業を喜ばれますように」(31節)と。


 初めの天地創造は歪んでしまって、神にとって喜べるものではない。むしろ悲しみ、だからこそ救いの計画を立てられた。その救いの計画の完成によって新天新地が現れる、その新たな天地創造の御業(神の子の誕生)を喜ばれるのだ。そして、裁き主なる神の現れるとき、全てのものは揺れ動き崩れ去る(32節)。


 結局、この詩は何が言いたいのか。35節「罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように」は、「みな裁かれて滅んでしまえ」ということなのか? いや、それは逆説的に「みな救われますように(その結果、罪人がいなくなりますように)」と言っている。そして、その救いの御業(新しい創造)を神が喜ばれますように、ということだ。「この救いの計画の故に神を誉めよ」という詩篇103と同じメッセージなのである。


 ただ実際には、救われる人は少ないのだろう。多くの人は広い道(現世ご利益を求める道)を行く。だから詩人は言う。『私自身は、主を喜びましょう』(34節)と。それが御心に適うことなのだ。

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