預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

祈らなきゃダメなの?(マタイ6:5~8)

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。



 『祈る時は、~してはいけません』という注意事項である。5~6節は同じことで、要は、見せかけの祈りはダメ、ということだ。祈りは、人に聞いてもらうものではなく、神に聞いて頂くものである。何故なら、祈りに応えて御業を行ない、助けを与えて下さるのは、人ではなく神だから。


 もう一つの注意は、「同じ言葉を繰り返さない」こと。だが、これは単に同じ言葉がいけないということではなく、「異邦人のような祈りをするな」ということである。彼らは、「自分達の神は、言葉数が多ければ聞いてくれる」と思って祈っている。しかし、真の神は、そのようなお方ではない。神は、祈る前から私達の必要を知っておられるお方なのである。


 「ほう、神は私達の必要を知っているというのか。ならば何故、与えてくれないのか」と言うべきではない。それどころか実は、既に与えられている。太陽も水も空気も……さらに言えば、「どうしても必要なただ一つのもの」である「永遠の命に至る信仰」さえもだ。Ⅱコリント6:10にあるように、私達は何も持たないようであっても、全ての物を持っているのだ。


 では何故、祈るべきか。もはや祈りは無用では? と疑問にもなる。そこで主は、『だから、こう祈りなさい』と教えられた。それが「主の祈り」だ。


 まず、「神の栄光(神の国と義)を第一に」……。何故なら、それこそ私達人間にとって最も難しいことだからだ。どうしても、自分の為に自分の欲を第一にしてしまう。だから祈って、それが出来るように自分が変えられることを求めるのである。


 次に、「日ごとの糧」…。養って下さるのは主であることを確認する為、神無しで生きて行けるなどと誤解しない為に


 そして、「罪の赦し」…。「私が赦したように…」という言葉によって、赦せていない自分を自覚し、日々、悔い改める者となる為に


 加えて、主に依り頼む者となる為に、「試みや悪から守られるように」と……。


 そのように、私達自身が、御心に適う者と変えられる為に、『こう祈りなさい』と主は教えられた。それが、祈りについての注意事項だ。それは既に教えられている。だから神には何の落ち度もない。ゆえに私達は、神訴えることは出来ない。神訴える(祈る)のだ。

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