預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇105(サンプルは必ずしも本物ではない)

 あえて一か所、15節「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」には注意が必要だ。自己正当化するのに持って来いの(カルト牧師が大好きな)御言葉である。しかしこれは創世記26章でイサクが妻を妹と偽ったことによって被害を被りそうになったアビメレク王が、民に「この二人に触れるな。死ぬぞ」と命じたときのことであって、決して「牧師の罪を責めるな」ということではない。


 さて、全体像を掴もう。8~44節は、イスラエルを通して示された「神の救いの計画」である。その計画を全人類に教える為の見本としてイスラエルは選ばれた(言わば、サンプルなのである)。故にパウロは「肉の子供がそのまま神の子なのではない」と言う(ローマ9:8)。それは「レストランの入り口にあるショウケースの中の肉のサンプルが、そのまま肉なのではない」のと同じだ。たとえ選ばれたからと言って、無条件で救われるのではない。「彼らは不信仰によって折られた」のだ(ローマ11:18)。だから、イスラエルよ信仰を保てと、詩人は語る(詩105:45)。イスラエルの歴史に示された神の救いの計画を見て掟を守れ、ということだ。


 では掟とは何か。律法なら彼らは表面上は守って来たはずだ。しかし主は言われた。「彼ら程度の行いでは甘い」と(マタイ5:20参照)。では誰が完全な行いを出来るだろうか。誰もいないならば信仰によって義とされる道しかない


 その様に、律法はキリストへ導く養育係(ガラテヤ3:24)なのである。つまり「掟を守れ」とは、最終的には「キリストの教えを守れ」という所に到達するべきなのであって、そうでないならイスラエルであっても倒れるということなのだ。だから「イスラエルよ、自分達の歴史から学べ」そして「キリストの教えに辿り着け」と語る、それが詩篇105だ。


 私達も、約束によって生まれた神の子(真のイスラエル)としてキリストの教えに留まることが必要だ。それも、ただ単に「掟を破らない」だけでなく、「教えを守る」べきなのである。つまり「偽りの教えを取り入れてはいけない」ということ(御言葉が曲げられてしまわないように、聖さを保つこと)だ。その為にも、旧約の正しい理解が必要だ。新約に無い教えを旧約から勝手に捻り出してはいけない。そんなものを取り入れたりせず、御言葉の純粋さを守って聖とされよう。

×

非ログインユーザーとして返信する