預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

信じただけでは、まだ・・・(ヨハネ8:30~32)

8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」



 真理を知らない多くの人は、偶像に縛られ、祟り、呪い、バチに縛られ、自由がない。私達人間は、聖書を、真の神を知らなければならないのだ。


 さて、主イエスの話を聞いた多くの人が「イエスを信じた」と聖書にある。しかし、その「イエスを信じた人々」に対して、主は言われた。『もし、わたしの言葉にとどまるなら、あなたがたは本当に私の弟子だ』と。つまり、イエスを信じただけでは、まだ本物ではない、ということだ。


 勿論、神は全ての人が救われることを望んではいる。望んではいるが、一方では、「救われる人より、滅びる人の方が多い」という意味のことを言っておられる。それどころか、滅びの人が現れなければならない、とまで。大きな門(広い道)を通りたいと思う人が多く、救いに至る小さな門(狭い道)を選び取る人は少ないのだ
 そして、それは、「キリストを信じない人(広い道を通る人)が多い」という意味ではなく、「キリストを信じても、狭い道を選び取る人(本物の弟子)が少ない」という意味なのである。それゆえ主は「信じたユダヤ人たちに言われた」のである。まだ本物ではない、と。


 私達は、本当のキリストの弟子にならなければならない。すなわち、主イエスの言葉にとどまって(その教えから離れることなく、キリストの心を学び取り)、御心を行うことだ。そうすれば、真理を知り、自由になれる。


 主イエスの「大宣教命令」を思い出そう。主は、『あらゆる国の人々を弟子としなさい』と言われた。クリスチャンが増えるのは喜ばしいことではある。しかし、主が命じられたのは、『弟子としなさい』である。大事なのは、本当にキリストの弟子となること。私達は、主イエスの言葉にとどまろう。キリストの心を知って行う者となろう。それが、本当の弟子だから。

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