預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

逃げるな、脱出だ(使徒2:37~41)

2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。



 「神の計画によって、あなた方の為に遣わされた救い主を、あなた方は殺したのだ」というペテロの説教を聞いて、人々は心を刺された。「取り返しのつかないことをしてしまった、どうしたらいいんですか」という悲痛な訴えにペテロは答えて、「この曲がった時代から救われなさい」と言った。すると、3000人ほどが洗礼を受けた。


 真の神が存在するという前提で考えれば、その神に従わない「この世」、あるいは、その人生は、曲がっていると言わざるを得ない。「命よりカネ」という今のご時世だ。


 その曲がった時代から救われなさい(逃れなさい、脱出しなさい)ということは、すなわち、聖書の教える価値観で生きる(たとえ全世界を手に入れても、真の命を損じたら何の得があるのか。今さえ良ければいいのではなく、永遠の尺度で生きるべきだ)ということであり、それが「悔い改めて、洗礼を受ける」=クリスチャンになることなのだ。


 ただし、「逃れる」と言っても、決して現実逃避するのではない。もし私達が、現実の問題に目をつぶって、天国を想像して、苦しみを忘れようとするなら、それはマルクスが言ったように「宗教はアヘンだ」となってしまうだろう。


 私達は、自分を誤魔化すのではない天国の信仰を持つことによって、命を大切にするようになり、生きる力が与えられ、希望と平安が与えられる。神には、その力があると信じることによって現実の生活が変わるのだ


 主イエスは、十字架の苦しみの中で、差し出された「没薬を混ぜたぶどう酒」を飲まなかった。何故なら、それは「感覚を麻痺させる為のもの」だからだ。主は、十字架の苦しみから逃避することなく、人間の全ての罪を受け止めて、ついには復活によって、その苦しみに勝利された。


 この、神の御計画に従って召された人の為には神は全てのことを働かせて益と変えて下さるのである。ゆえに、信じる者は、現実の問題に勝利することが出来るようになる。主は、苦しんでいる者を助けることがお出来になるのである。そのように、現実の中で、力強く生きる術、それが信仰なのだ。


 曲がった「この世」の価値観で生きるのではなく、救われて、聖書の教え(その価値観)で生きる者となろう。

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